2013年9月25日

神について思う

神は全てをお許しになる。
悔い改めよ




あなたは、神を信じていますか。
これは根源的質問です。
あなたは、自分で、自分の事を許せますか。
これは本質的質問です。

他人の罪を許すことは難しい。
しかし、他人の罪を許すことより、なお、難しいのが自分が犯した罪を許すことだ。
自分を許すことができないから、自分の罪を認め、悔い改めることができないのである。
自分で自分のことを許す為には、自分を超越した存在を必要とする。
それが神である。
故に、人は神を必要としている。

神は、全てをお許しになる。
神は唯一の救い主である。

神は、絶対的な存在である。
神は、唯一の存在である。
神は、完全無欠な存在である。
神は、全知全能である。
神は、全てである。
神は、無分別である。

不完全な神など存在しない。
神は完全なのである。
完全なる神を分かつ事はできない。
しかし、分かつ事ができなければ分別はできない。
分別ができなければ、物事を認識する事ができない。
故に、人は、対象を他と分かつ事で対象を認識し、分別するのである。
故に、対象を認識した時点で、存在の完全性は壊され、不完全な物になる。
存在の絶対性は、失われ、対象は相対的な事として認識される。
しかし、それは、存在の絶対性や完全性が損なわれる事を意味しているのではない。
認識上の必要性において対象を分かち、分別したに過ぎないのである。
相対的で、不完全なのは、認識である。
故に、認識によって形成される人間の意識は、相対的で不完全な事なのである。

相対的なのは自分である。
善悪の分別は、自分の側にある。
分別は、相対的で、不完全なものである。
善悪の基準も、また、相対的で不完全である。
絶対的なのは存在であり、事実である。

相対的なのは意識である。
正否善悪の分別は意識によって作られる。
意識は、認識によって形成される。

自己を他と分かつ事によって意識は生じる。
認識は、任意の対象を他の対象と分かつ事によって成立する。
分別は、認識する事によって始まる。
意識は分別の結果である。

意識が生み出す正否、善悪の基準は相対的である。
相対的である基準は、不確かである。

罪は、意識によって生まれる。
故に、罪は、相対的で、不確かな事の上に成り立っている。
罪を生み出すのは自己である。
自分の意識が自分の罪を作るのである。

故に、自分の罪を、魂を救済する存在は、自己を超越した存在でなければならない。
それが神である。

絶対的存在者による赦しがなければ、人は、罪悪感から逃れられない。
人間には、神の許しが必要なのである。

他人の過ちを許す事は難しい。
ただ、それ以上に難しいのは自分で自分を許す事である。

自分で自分が許せないが故に、人間は、悶え苦しむ。
鬱々として病にもなる。
救いがないからである。
神の赦しがなければ、癒やされる事がない。

神の許しを得るためには、悔い改める必要がある。

心から悔い改めなければ、神の許しは受けられない。
ただそれは、神が許していないのではなく。
自分で自分を許せないのである。
自分を許せるのは、神のみである。
故に人は神を必要とするのである。

心から、自分は悪い事をしたと認め、悔い改めれば、神の許しはいつでも受けられる。
神の許しを受けられないのは、自分が悔い改めていないからである。
つまりは、自分で自分を許していないのである。
自分で自分を許せないのである。

神に答えを求めるべきではない。
答えを求めても神は沈黙する。
神は、お示しになるだけである。
答えを出すのは人である。

地震に、津波に、原発事故。
台風や竜巻、大雨、洪水。
生、病、老、死。
犯罪、戦争、核兵器、化学兵器、生物兵器。
公害、人口問題、貧困。格差に差別。
環境破壊に、環境汚染、温暖化。
神は、お示しになられた。
答えを出すのは人間である。

海や空を汚したのは、誰だ。
大地を汚したのは、誰か。

戦争を起こすのは、人である。
戦争を終わらせるのも人である。
戦争は神の罪ではない。
人の罪である。
人間が悔い改めないかぎり戦争も環境破壊も終わらないのである。
恨むなら、人を恨むしかない。
人を恨んでも物事の解決にはならない。

人は、神を怖れるから自分の過ちを認め、悔い改めるのである。
神を怖れぬものは、自滅する。

答えは神に問うのではなく、自らに問え。

神の物は、神へ。
人の事は、人へ。

自分の行いに対する受け止め方は、相対的である。
何が正しくて何が間違っているかは、
その時その時、自分の置かれている状況や立ち位置、立場、自分の有り様によって違ってくる。
昨日、正しいと思っていた事でも、今日は、過ちだと気がつく事もある。
今日の間違いは、明日、正しい事になるかもしれない。
だから、人は、反省する必要があるのである。
日々、反省をして、神に告白し、赦しを請う。
心から反省し、悔い改めれば、神は、いつでも、どんな事でも許される。
神の許しには限りはないのである。
それ故に、人間は、常に自分を振り返り、悔い改め続ける事が求められているのである。

自分を許しなさい。そして、神を受け入れるのです。
そのためには、日々、反省し、神に懺悔し、悔い改めるのです。
そうすれば神はお許しになる。

ただ偽りの懺悔も反省も神は受け入れてはくれない。
神は全てをお見通しなのである。
他人は騙せても自分は騙せない。
自分は騙せても神は騙せない。

あなたがついた小さな嘘も神はお見通しである。

あなたがついた嘘を承知で、悔い改めれば、神はあなたを許される。
自分がついた嘘を、許せないのは自分である。
嘘を嘘として認めない限り悔い改めることはできない。
それでも、
あなたの犯した罪の全てを、神は、許される。

神の前では素直になりなさい。

些細な過ち程、懺悔し、赦しを請いなさい。
些細の罪程、棘のように心に突き刺さり、人の心を苦しめるものです。
嗚呼、あの人に酷い事を言ってしまったと思ったら、神に懺悔し、赦しを請いなさい。
そして、悔い改めるのです。

過ちを認める時は、なりふりを構っていてはなりません。
泣き叫んでもいい。
神に身を委ね。神を信じて、神に赦しを請うのです。
神は、いつでも、どんな事でも、全て、お許しになる。
あなたが今、存在している事が神の救済の証なのです。

自分の過ちを認めるのは、死ぬ程辛い。
他人の罪と自分の罪を比べてみても意味がない。
なぜ、あの人は許されるのと憤ったところで、自分の罪が許されるわけではない。
神の許しを請うためには、先ず、自分の過ちを認める事なのである。
自分の犯した過ちを認める事ができないから苦しいのである。
力を持てば持つ程、
成功すればする程、
名声を得れば得る程、
自分の過ちを認める事が辛くなる。
だから、人は神を必要とするのである。

神の前では、素に戻るしかない。

過ちを認めるのは今です。
先に送ればそれだけ苦しむのは、自分なのです。
今すぐに過ちを認めて悔い改めなさい。
あなたは、あなた自身を見ている。神は見ている。
今しかないのです。
今こそ不変なのです。

余命を宣告されたり、死刑を宣告された事で悔い改める人もいる。
しかし、日本で年間十万人近くの人が突然死していると言われている。
事故で死ぬ人も多くいる。
余命を宣告されて悔い改められる人はまだ幸せなのである。
死は定まっているのである。
自分の過ちを認め悔い改めるのは、早ければ早い程いいのである。

自分の過ちを認め、悔い改めた者は、常に心穏やかである。
神を怖れる必要がないからである。
自分の過ちを受け入れられず、悔い改められぬ者は、気の休まる時はない。
絶えず、物事に怯え、憎しみや恨みで悶え苦しむ。
肝心なのは自分の心の安寧(あんねい)である。

他人の罪がどうのこうのと詮索しても意味はない。
大切なのは、あなたが犯した過ちなのです。
なぜ、あんな極悪人の罪が許されるのと
神を責めても無意味なのです。
悔い改めれば、どんな人間の罪も許されるのです。
罪に軽重などありません。
罪は、罪なのです。
他人の罪などどうでも良いのです。
大切なのは、悔い改める事です。
認めるべきなのは、自分の犯した罪なのです。
改めるべきは、自分の行いなのです。

他人を嫉妬し、恨んで死ぬなんて惨(みじ)めな事である。
周囲の人にありがとうと言って死ねたら最高に幸せである。

罪を認める事は、あるがままの自分を受け入れる事なのです。
泣きなさい。喚きなさい。
神は、ただ、抱きしめてくれる。
そして、一緒に泣き、喚いてくれる。
泣きわめいているあなたと伴に、神はおられるからです。

人間とは、弱い存在なのです。

神は、善悪を超越した存在です。
悔い改めれば、神は全てをお許しになる。

神は、常に、我々を許されておられる。

ただ悔い改めなければ赦しを、自分が、受け入れる事ができない。
赦しを受け入れないのは自分である。
悔い改める事ができないから神の許しを受け入れられないのである。

なぜ。
なぜ、人は、自分の罪を認め、悔い改められないのか。
なぜ。

神の許しを受け入れるのは自分である。
人は、常に、自分の行いを反省し、悔い改めなければならない。
それが神の許しを受け入れる事である。
許せないのは、自分である。
自分で自分が許せないのである。
それ故に、人は自らの行いに苦しみ、悶えるのである。

他人を責めるのは止めよう。
悔い改めなければならないのは自分なのである。

神に答えを求めるべきではない。
答えを出すのは人である。
神に答えを聞くべきではない。
答えを出すのは、自分である。
自分が答えを出すからこそ結果に対して責任が負う事ができるのである。

神は何も語らない。ただ神はお示しになるだけである。

善悪を定めるのはおのれである。
人は、自分の定めた善悪によって裁かれるのである。
人は、自分が決めた善悪によって生きるのである。

ドストエフスキーが言うように、
人を殺しても、物を盗んでも、少女を強姦しても、
神は許される。
しかし、神が許される事を知る者は、罪を犯したりはしない。
なぜなら、その罪は、自分自身に重くのしかかるからである。
罪が重ければ重い程、自分で自分が許せなくなるからである。
自分で自分を罰し続ける事になるからである。
神から遠く離れていってしまうからである。

かつては、宗教、社会が人が生きていく為の戒律や掟を決めていた。
しかし、神は、本来、人の世の戒律を定めたりはしない。
神は善悪を超越した存在なのである。
神は、人を殺すなとは言っていない。
ただお示しになるだけである。
人殺しを善しとするならば、自分の命も狙われる。
人を殺したら、その報いは自分が受けるのである。

罪は自分の側にある。
罪を認めるのは自分である。
罪を認め、懺悔して、悔い改め、神に赦しを請うのである。

男と女の関係も然り。
自分の考えがハッキリしていないから人を愛せない。
自分を許せないから人を愛せないのである。
相手を受け入れる事ができないのである。
愛せない理由を相手に求めても解決はされない。
愛に背けば、愛は成就しないのである。

神は、人を赦し尽くしておられる。
ここまでは、許せてもここから先は許せないという事はない。
赦しに際限も、限界もないのである。

ただ、神のお許しを受けるか、受けないかは自分で決めなければならない。
神の許しを受けるためには悔い改める必要がある。

人は、幸せな時、神を侮り、不幸になると神を罵る。
しかし、神は、神である。
神の許しを必要としているのは人である。
神は人を必要としているわけではない。
神の本質は愛なのである。

人は神に何を期待し、何を求めるのか。
人は神の前に平等である。
人は死の前に平等なのである。

滅びるにせよ、生かされるにせよ、神のご意志なのである。

今、こうして生きていられるとしたら神の意志によって生かされているのである。
人を生かしているのは、神の愛である。

神は、常に許される。
悔い改めれば、神は許される。

許せないのは、自分である。

人は、最後、ただ一人、裸で、神の前に立たされる。
その時、まっすぐに神を見るのです。
怖れてはいけません。
一切の弁明をしないで、
純粋な気持ちで、神の愛を受け入れるのです。
ひたすら、神に赦しを請うのです。
神の本性は愛なのです。
神は、人を救済し続けているのです。
人は、神の祝福を得てこの世に生まれるのです。
神の本性は愛なのです。
ただ、神のみを信じなさい。

もう一度お聞きします。
あなたは、神を信じますか。
あなたは、自分で自分の事を許せますか。



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