2013年8月11日
神について思う
神に対して自問自答し、語り合う
自分が信じる神、思い描く神について自問自答し、その上で、語り合おう。
自分とって神とは、どの様な存在なのか。
自分は、神のことをどう思っているのか。
自分が思い浮かぶ神とはどの様な神なのか。
自分が信じる神について自問自答してみるのだ。
その上で、自分が神について考えついた事、思っている事を信頼のおける人に話してみよう。
ただ、勘違いしないで欲しいのは、私が言う神とは、自分が信じる神である。
キリスト教の神とか、イスラム教の神とか、ユダヤ教の神とか、ギリシア神話に出てくる神とか、神道の神とか、新興宗教の神を言っているのではない。
又、神を定義しろと言っているわけでもない。
自問自答し、語り合うのは、自分が、信じている神である。
他人の信じる神ではない。
自問自答するのは、自分がどんな神を信じているかなのである。
又、自分が信じている神に対する思いなのである。
むろん、キリスト教徒が、キリスト教的な神を語り、イスラム教徒がイスラム的神を語るのはかまわない。ただ、それは自分が信じる神の範囲内においてである。
自分の信じる神を他人にまで敷衍するのは間違いである。
大体、キリスト教感だって神に対する考え方は人それぞれ違うはずである。
神と自己とは、一対一の関係しかない。
だからこそ、神は、自分にとって最高な存在であり、絶対的な存在たり得るのだ。
他人がどう思うか、他人が信じるか信じないかによって神の存在が揺るぐようでは、自己にとって神は最高でも絶対でもない。
神と自己との間には何の隔たりも障害もない。
だから、何々教の神というのは、人が自分の都合で定めた事であって、自分の信じる神を制約できるような決まりではない。
大体、神を制約できるような決まりなど事は定められないのである。
神と自己とが一対一の関係にあるから神は人に対して平等たりうるのである。
神と自己との間に何ものかが介在したら、神は平等たりえなくなる。
何々教の神と特定できたり、或いは、区分できるならば神は絶対的ではない。
私の信じる神は絶対的な神であるから、何々教の神とは区分できない。
私が信じる神は、絶対的な神なのである。私にとって絶対的なのである。
神は神なのである。
しかも、私は私なのである。
神と自己との間には、何ものも存在しない。
神と自己との間には、教祖も、教会も、聖職者も、教団も何も入り込む余地はない。又、いらない。
神と自己は、一対一であり。神と自己とは、一対一に対峙するしかない。
最後は、自己は、神と一対一で対峙しなければならない。
だからこそ、神をどう思い、どう信じるかは、自分の事をどう思い、どう信じるかの問題に落ち着くのである。
自らの神に誓って恥じる事がなければ、断固として貫けばいいのである。
神に使って恥じる事なし。それこそが堂々たる人生である。
私にとって誰がなんと言っても私が信じる神が、神なのである。
だからこそ、自らの神に自分の思いを懺悔した時、はじめて自分の進むべき道が明らかになるのである。
ただこの場合の懺悔とは、自分の犯した罪だけを指すのではなく。
自分の夢や希望といった前向きな思いも含んでいます。
自分の犯して罪の赦しを求めるのも大切だが、むしろ、自分の夢について、希望についてこそ懺悔すべきなのである。
他人がどんな神を信じているかについて自問自答したり、語り合う必要はない。
また、他人に自分の神を強要する必要もない。
自分かどんな神を信じているかについて自問自答し、互いに確認し合えばいいのである。
そして、お互いの神を尊重し合う事である。
どちらの神が優秀で、どちらの神が劣っているかなんて競い合う事は愚かである。
なぜならば、人にとって自分が信じる神が絶対なのである。
自分が信じる神が最高、至高な存在なのである。
人が信じる神に対して干渉する必要はないのである。
他人に強要するのではなく、率直に自分は何を信じているかを口にする。
神について、自問自答し、語り合う事は、真実について、生きる事について、理想について、夢について、自分自身について自問自答し、語り合う事なのである。
自分が何を信じ、どんな生き方をしようとしているのかについて考え、語り合う事なのである。
神という存在を先入観や偏見で決めつけているから神の本質を理解することができない。
人にとって神とは、不可知な存在なのである。
だからこそ、神に対して自分の意見、考え方を交換するしかないのである。
自分自身で神を見いだし、信じる以外にないのである。
自分が信じる神は、他人から与えられる存在ではない。
自分自身で見いだすしかない。
自分が信じる神とは何なのか。
自分が信じる神とは、自分にとって真実。
嘘偽りのない存在。
生きる誠、純真。
至純な存在。
自分の良心。
最善なる存在。
至上の愛。
自分の生きる道を指し示す導き手。
生きる希望。
神は自分を映す鏡である。
どんな神を自分が信じるか、それは自分自身を映し出す事でもある。
神とは、何か、自問自答する。
それは、自分自身を知る事であり、自分を内観する事である。
神について語り合うことは、自分を他者に投影することでもある。
神について語ることは自分を語ることでもある。
どの様な神を信じるのか、また、信じているのかは、純粋に自分の事なのである。
他人が、どの様な神を信じ、又信じているのかは関係ない。
自分がどの様な神を信じているかが、重要なのである。
だから、自分が信じる神を他人に強要しても意味はない。
どの様な神を信じているのかは、自分が何を正しいとしているか、自分が何を信じているのかを知る事でもあるのである。
自分が信じる神を確信した時、自分以外の人間とも共鳴共感する事ができるようになるのである。
それこそが共に生きる事である。
人が自分らしい生き方をする為には、神を信じて神に自分を委ねて投げ出していく以外にないのである。
神は、理想であり、希望であり、夢でもある。
又、神は、自分自身を投影したものである。
未来は、曖昧模糊とし、不確実である。
自分の予想が当たるという確証は何処にもない。
自分が正しいという保証はない。
自分が成功するという保証も何処にもない。
自分の神を信じて神に自分の未来を希望を託す以外に自己実現をする道はない。
だからこそ、神の事を自問自答し、語り合う事は、自分の人生を、生きる事を、自分の夢を自分の可能性を語り合う事なのである。
自分が何を信じ、何を正しいとし、何をしたいと思っているのかを知る為には、
自分が信じる神について、自問自答し、語り合う以外にない。
他人が信じる神についてではない。
自分が信じる神についてである。
自分が何ものに生かされ、何処へ行こうとしているのか。それを知る為にも神について自問自答するのである。
自分が自分らしい生き方をする為には、
自己実現をする為には、自分が信じる神を知る必要があるのである。
そして、この瞬間、瞬間に神に自分の全てををさらけ出し、投げ出していく以外にない。
自分の全てをさらけ出し、自分の全てを投げ出す事ができるのは、、自己を超越し、絶対なる神以外にないのである。
信仰は、信じる事なのである。
神を信じる事は、未来を信じる事なのである。
愛を信じる事なのである。
希望を信じる事なのである。
夢を信じる事なのである。
善を信じる事なのである。
理想を信じる事なのである。
神を信じる事は、自分を信じる事なのである。
神について自問自答するのは、自分をそして、未来を信じる為にである。
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