2013年8月5日

神について思う

聴く




聴くということの難しさについて考えさせられた。

人の話を聴くというのは、根気と忍耐力が必要だ。
自分では、相手の話を聴いているつもりでも、後で反芻してみると何も思い出せなかったりする。
しかも、ただ、相手の話を聴くだけでは、相手の言っている事の真意を理解していなければ、本当の意味で相手の話を聴いた事にはならない。この点が難しいのである。
解ったつまりになっているだけで何も解っていないという事が往々にしてある。

特に、仕事では、相手の話をよく聴いて理解しておかなければ話にならない。

仕事というのは、何らかの考えと実際に実施する具体策からなる。
考えというのは、主旨とか方策を指して言う。
どんな考えに基づいているのかが、理解できないと何をしたいのかを理解する事ができない。

考え方だけを話してもそれは話の話で、空しいものである。
かといって具体策だけでは、実施する意義や意味がわからない。

考え方を説明した後、それでどうするの。
或いは、それでどうしたいのという質問に答えられなければならない。
また、自分がやりたい事、しようとしている事を言ったら、なぜ、やりたいのか、どうしてしたいのかのついて説明する必要がある。

仕事だけでなく。物事というのは、考えと具体策からなっている。
だから、どんな物事でもそれを実現しようと思ったら、考え方と具体策を明らかにする必要がある。

だから、自分と一緒に行動する仲間や同志には、話を聴かなければならないし、又、話をしなければならない。

ところが、話を聴いたり、話したりというのが難しい。なかなか真意が伝わらないのである。

聴くというのは、本来、攻撃的なものである。
この点について多くの人は、誤解している。聴くというのは、受動的で防御的な行為でと思い込んでいる。確かに、聴くという行為は受動的な側面を持っている。しかし、本質的にどちらかというと攻撃的な行為である。
その証拠に、裁判では、聞く側と聞かれる側どちらが攻撃側で、どちらが防御側かを考えれば解る。
判事に、検事、弁護士、いずれも聞く側の人間であり、容疑者も、被害者も、聴かれる側の人間である。だから黙秘権が認められている。
黙秘権というのは、聴かれる側が行使できる防御の権利の一つである。

最も攻撃的なのは、子供のなぜなぜという質問である。なぜ、なぜ攻撃を受けると大概の大人はたじたじとなり、防衛的になり仕舞いには怒り出してしまう。

この様に、聴くという行為は、本来、攻撃的である。故に、聞く側は、余程、配慮していないと聞かれる側に、警戒心をもたれ、防御的になられてしまう。
聴かれているという意識が働くだけでも、聴かれる側は、相手から自分を護りたくなる。
それが、どうしても防御的、相手から見ると攻撃的に見えてしまう。

聴くという意味には、二つの意味がある。話を聞くというのと物音を聞くという事である。
第一に、物音を聞くという場合の聞くである。この場合の聞くは、聴くではなくて聞くを専ら使う。
それに対して、二つ目は人の話を聴くである。この場合は、聴くを使う。

聴くというのは、伝達の手段であると共に察知、認識の手段である。
我々は、聴くという行為を単純に情報伝達の手段と考えている節があるが、情報伝達の手段には、発信の手段と受信の手段があり、聴くというのは、受信の手段だという事である。
受信という手段だけで考えると発信者の意図にかかわらずに、一方的に聴くという行為も含まれる。その場合、聴くという行為は、察知、認識の手段だと言える。

この様なことを考えると意識して聴く場合、無意識に聴く場合がある事にも気がつく。

聴くという事は、自己が受信した音の情報を取捨選択して必要な情報を意識の内部に再構築することを意味している。

聴くというのは自己に向かって発せられた情報を受け取るということを意味する。それは、自己を知るという事にもなる。

芸人にとって拍手や笑いは、自己に対する反応である。それも聴くである。
スポーツ選手は自分に対する歓声も自分の行為に対する反応である。歓声も又聞くのである。
聞くは効くに通じる。大きな歓声や拍手は自己を高揚し、自己の姿を拡大化する。場合によっては、自己の姿を異常に過大化させてしまう危険性がある。
聴くことは自分を認識することでもある。

ソナーが良い例である。ソナーは、自分が発した音の反響によって自分の位置を知るのである。自分というのは、間接的な認識対象である。自己の情報を外部に発信し、その情報に対する反応によって自己を知るのである。
その意味で聴くというのは、自己を知ることを意味している。
その意味では、聴くという行為はその対極にある話すという行為と一対で考えるべきなのである。
話す、或いは、意味不明な事を叫ぶ事で自己を外部に投影しその反響によって自己を知る行為とも言える。それが聴くである。

人の話を聴くというのは、聴くという行為と聴かれるという行為があって成り立つ。
つまり、双方向の働きがある。この双方向の働きを理解しないと聴くことの意味を理解することはできない。

人間関係における不満の中でよく言われるのが、又は、よく聴かれるのが、自分の話を聴いてくれないという事である。
この場合、話すという事と聴くという事が一対の関係として扱われている。
この点が重要なのである。

聴くというのは、本来受信である。
話すが発信である。
聴くという行為の対極にあるのは、話すという行為である。
話すという行為は、発信行為であるから能動的な行為である。
能動的と言っても必ずしも積極的、或いは、攻撃的とは限らない。
むしろ、防御的行為である場合が多い。
典型的なのは、防御的な話とは、言い訳や弁明である。
どうしても、聴かれて話す内容は、言い訳じみたり、弁明になりやすい。
営業という行為でも、話をするというのは防御的で、相手の話を聴いて販売をするというのは攻撃的である。
話すというのは、根本的に自己を相手に投げ出すという行為である。
必然的に、相手の反応が重要な意味を持ってくる。
反応が悪ければ、話す内容も否定的なものになりやすい。
それが聴くという行為にも反映される。
つまり、話すという行為と聴くという行為は、一対である場合が多いのである。
コミュニケーションの基本は、聴くという行為と話という行為を適切に組み合わせる事によって成り立っている。

聴くというのは、基本的に攻撃的な行為である。子供の質問を見ると聴く事の攻撃性が解る。大の大人でも子供のなぜなぜ攻撃にはたじたじとなる。
ただ、聴くという行為にも攻撃性だけでなく。防御性もある。

話すという行為にも攻撃性と防御性がある。

又、聴くという行為は、基本的に受動的な行為である。それは、聴くという行為の働きが受信にあるからである。それに対して話すという行為は、発信的働きであり、根本は、能動的なものである。

この様に基本的に受動的な行為である聴く事も能動的な行為にする事もできる。又、逆に、話すという能動的行為も受動的な行為にすることができる。

そして、積極的か消極的かによって聴くという行為の働きが微妙に変化する。

聴くとか話すという働きを適切に発揮するのは、前提となる状況や条件と手段による。

前提となる状況や手段は、政策的次元と戦略的次元、戦術的次元といった次元や段階の差によって定まる。

例えば、政策的には、防御的に相手の話を聴くとしても、戦略的には、攻撃的に相手の本音を引き出すという場合もある。
この様なことは、単に個人の問題としてだけでなく。国家のレベルでも言えることである。

話をするというのは、基本的に自己主張を言う。

聴くという事の中には、能動的に聴くという聴き方もある。
能動的に聴くというのは、話をする事で聴くという事である。
自分の事を話しているようで、実は、相手の事を話して相手の反応によって聴き出すのである。
この様に、聴くというのは一見受動的だが能動的な側面もある。
自分が話す事を通じて聴くのである。

又、幾つかの質問をして聴きながらある一定の答えに誘導したりもする。こうなると聴くといっても話すというのに近い。
聴くというのは、単に一つの事を聴くと言うより、幾つかの質問を組み合わせたり、質問の順番を変えたり、仕方を変えたりする事が重要な意味を持っている事が解る。
つまり、聴くというのは一つの体系でもあるのである。

聴くというのは、相手を知るという意味以外に自分を知ることでもある。
つまり、相手を知って自分を知るのである。
故に、聴くという行為は、相手が会って成り立つのであり、相手次第で随分と違ったものになるのである。

聴く側と聴かれる側の姿勢が大きく影響する。

自分から求めて聴く場合と強制的に聴かれる場合とでは、全く違った反応を示す。

積極的に話しかけてくる場合と厭々話をする場合では聴く側の姿勢や態度も違ってくる。

厭々話をするというのは、聴かれる側が防御的になっている証拠である。
聴かれる側が防御的になるのは、第一に、隠したいことがある場合である。
第二に、言いたくない状況、或いは、言いたくない理由がある場合である。心の状態にも左右される。例えば、話したところで正確に相手に伝わらないと思っていたり、理解されない、誤解されるだけだと思っている場合などである。又、攻撃される、叱られると思う場合もある。
第三に、解らないこと、曖昧な点がある場合である。
第四に、聞き手の真意や質問の意味が理解できない場合である。
この内面の抵抗を軽減しないと積極的に自分のことを話してはくれない。

聴く者と聞かれる者の位置関係も重要になる。
聴く側が優位、即ち、上位の立場で聞く場合、中立的、公正、客観的な立場にある場合、下位にある場合では聴き方に違いが生じる。

聴くという行為の根本は、調査、即ち、調べるという事である。

聞く側が優位な立場にあるのが、指導的立場や擁護的立場にある場合である。中立的立場がカウンセリング、下位に立つというのは、被指導的立場や被擁護的立場手ある。
優位な立場で聞く手法の一つが尋問である。
被指導的立場というのは、要するに指導を受ける側、学生や実施者のような立場を差す。
家を建てたる時、施主に対する設計士や施工のような立場、会社の上司に対する部下の立場、レストランで言う、客とウェイトレスのような立場である。

聴いている状況や環境にも左右される。
例えば、見て聴くというのと、見ないで聴くでは違いが生じる。
言葉だけを聞き取るというのと身振りや仕草、態度、顔色、周囲の環境や状況を含めて総合的に聴くというのでは、伝達された情報の質に差が出る。

聴くという事は、質問の仕方にもよる。それによって相手は威圧感を感じたりする。

私の恩人とも言える経営者は、質問するのに一定の形を持っていた。先ず、幾つになったと決まって年齢を聞くのである。そして、当たり障りのない質問を繰り返し、その中に聞きたい質問を紛れ込ませるのである。最初は、相手に嘘をついたり、誤魔化したりする必要がないから、無防備に相手の質問に答えてしまう。当たり障りのない質問を繰り返されている内に肝心なことをしゃべらされてしまうのである。
この様に聴くというのは、心理戦的な要素を多分に含んでいるのである。

相手が正確に聞かれている内容を理解して場合、把握している場合と聞かれている内容を理解していない、或いは、把握していない場合とでは根本が違う。
例えば、自分のことがよくわかっていない者は、自分事を知る為に自分の話をして、相手の意見を聞くという事もある。相手が自分のことをよく理解していると思って聴くのと、相手が自分のことをよく理解していないで、自分のことを知りたいと思っているという前提で聴くのでは、話の聴き方が全然違ってくる。

又、考えを理解するというのは、相手の考えを聴くだけではなく、相手の考えをよく聴いて、自分の考えにしなければ、理解したとは言えない。

動転している場合は、聴かれていることに正常に反応できなくなっている。聴くというのは、そのような状況も含めて聴くのである。

又、聴くという行為が、攻撃的であるから、聴かれている側は防御的になる。
その防御を解除したり、差し引かないと相手の真意を聞き取ることはできない。
防御としては、嘘をつく、はぐらかす、誤魔化す、沈黙する等がある。
それらの意味するところを理解しないと相手から真実を聞き取ることができない。
防御的な姿勢をとられるとなかなか相手は本当の自分をさらけ出さなくなる。
相手が自分を出さなければ、本当の自己も反映されなくなる。
故に、自分と相手とが同調、シンクロしなくなる。聴いたないような自己の意識に取り込めなくなる。

話を聴くという事には、二つの働きがある。その働きを正しく理解していないと聴くという事の意義や意味を理解する事はできない。一つは、相手の話を理解する為の手段だという事である。もう一つは、相手の姿を映す鏡としての働きである。
話しては、聞き手の反応を見ながら、自分が何を言わんとしているかを確認して話をしてくる。自分が正しい反応をしていないと相手の話も歪んでくるのである。ここに聴くという事の難しさがある。
ただひたすらに相手の意見に耳を傾けるだけでは、相手の話を聴く事にはならないのである。
相手の話に対して虚心坦懐に反応しなければ、相手は心を開いて話をしてくれないし、又、自分の心を開いて相手の話を聴かなければ、相手の話は自分の心の中にはっいてこない。
聴くという行為は、一見受動的な行為に見えるが、そういう意味では能動的な行為でもある。
相手にとってよき鏡になる事が、相手の話を聴く為には、重要な要件となるのである。先入観や偏見に囚われて相手の話を聴く事は、聞き手だけでなく、話し手の実像も歪めてしまうのである。
相手の話を正しく聴き、正しく相手を理解するためには、聞き手は明鏡止水の心構えが大切になるのである。

孔子は、六十にして耳に順うと言われたが、自分が六十になってこの教えの難しさを実感している。
耳順というのは人いう事を逆らわずに素直に聞けるようになるという事である。それが孔子は、六十歳になってやっとできるようになったと言うのである。
ここに孔子の凄みがある。ある意味で、六十歳になってはじめて人の話が聞けるようになったとも解釈できるのである。
自分も六十になって我が身を振り返ってみるととてもとても耳順という心境に至っていない。恥ずかしい事である。耳順になるどころかますます頑固になり、先入観や、偏見が強くなっている様にさえ思える。
耳に順うという言葉が心に重くのしかかる。聴くという事は、耳に順う事でもあるのである。
人の話を聴く時は、己(おのれ)の心を空っぽにしておく必要がある。

神との対話の中で重要なのは、懺悔である。
懺悔とは、自分のしてきた事を告白する事によって神の意志を聴くのである。
懺悔は、告白であると同時に、神の心を聴く事でもある。
そこに懺悔の重要性がある。
神は、懺悔している最中は沈黙をしている。その沈黙が雄弁に神の意志を語っているのである。
答えは、自分の心の内にある。
懺悔とは、神に自分の思いを語り、神の意志を聴く事なのである。

神の予言だのお告げだのをああだこうだ議論することを神について語ることだと思い込んでいる人達がいるのである。それが、神を怪しげな存在にしてしまっているのである。

神は沈黙する。
ただお示しになるだけである。

神の啓示とは、兆しである。
神について語るというのは、現れた兆しの意味することを話し合うことなのである。

津波、温暖化、地震と言った天変地異の背後には何が存在し、何を教えようとしているのか。
戦争や革命、暴動と言った争い。
恐慌やインフレ、貧困や差別といった人の世の問題。
環境破壊、原発事故。
これらが、兆しである。これが神の啓示である。
答えは人間が出さなければならない。
神はお示しになった。答えは人が出すですのである。
人が出した結果によって人は報いを受けるのである。

神に答えを求めても神は沈黙する。神はお示しになっているだけである。それが神の啓示である。
だから、我々の眼前に現れた兆しについて語り合うことこそ神について語ることなのである。

現代人の多くは、心を病んでいまある。

なぜ、現代人は、心を病むのか。

神は人々の心を通して現れる。
人の心を借りて現れる。

現代人が心を病む原因こそ兆しであり、神の啓示なのである。

予言とか、お告げを聞いたと言うから不真面目に、何か怪しげにも聞こえるのである。
神の啓示とは、兆しです。神について語るというのは、現れた兆しの意味することを話し合うことなのである。

神は人々の心を通して現れる。
人の心を借りて現れる。

この世を救えるのは神しかいない。
人は神にはなれない。
人は神を超えられない。
なぜならば、人には限りがあるが、神には限りがないからである。



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