2013年10月23日 11:07:32

神について思う

癒やし




多くの現代人は、心を病んでいる。
癒やされることのない世界に生きているのである。
それは神なき世界だからである。

なぜ、正しきが虐げられ、悪しきが栄えるのであろうか。
肝心なのはそこにあると思う。
我々は、今、何を志すべきなのか。何を為すべきなのか。

現代社会では、正義は問題ではない。
問題なのは金儲けである。
金がなければ何も言えないのである。
金がない者は正義すら語れない。

今、社会も、国家も、世界も、心を病んでいる。
国も社会も心がある。
その心を病んでいる。

至る所で歴史問題が顔を出す。
そして、過去の恨み辛みが人々の心の間に壁を作る。
確かに、それぞれの国には歴史があり、言い分がある。
しかし、それが人々の心に壁を作るいいわけにはならない。
歴史から何を学ぶのか。
それは、人と人との間に越えられない壁や埋められない溝ができ。
それが原因で戦争になった時、塗炭の苦しみを味わうのは、戦った当事国のみならず、戦場となった地域に住む人々だという事である。
そして、もっとも犠牲になるのは、年寄りや子供、女性といった社会的弱者だという事である。

国と国との関係も言い分も、人と人との間の関係や言い分に似ている気がする。
国も心かあり、その心を病んでいる。
それが、正しき者が虐げられ悪を栄えさせているのだと思う。
大切なのは、いかに人々の心を癒やし、未来に向けて心を一つにしていくかである。

だからこそ、神の許しが必要なのである。

お互いが、歴史とか、欲望によって争い合う。しかし、その大本には神がいない。

あなたにとって神とは何ですか。
あなたにとって神とは、どの様な存在なのですか。

自らの神に自分の思いを懺悔した時、はじめて自分の進むべき道が明らかになる。
ここでいう懺悔というのは、自分の犯した罪のみではなく。自分の思いや希望、夢と言った前向きな事も含んでいる。

神と向かい合うという事は、真正の自己と向かい合う事でもある。

神が不在な社会は、赦しのない社会である。
ただ、罰するだけの社会、罰せられるだけの社会である。
救いがないのである。

恐怖と怖れによって支配される社会である。

自分を許す存在、神が不在な世界は、
許す者なき世界なのである。
許す者なき世界での救済は、罰しかない。

故に、この世では、罰しか存在しない。
それが法治国家の実体である。
法を犯さなければ許されるというのではない。
法は、罰する為にあるのである。
法によって許されるわけではない。
今の世にあるのは、罪と罰だけである。

赦しのない社会では、人々はも常に怖れ、おののいている。
会社の経営者は、いつ会社が潰れ社会から罰せられはしないか。
政治家は、自分の行為や言動が社会から糾弾されはしないか。
医者は、誤診をして訴えられはしないか。
自動車を運転する者は、事故を起こしはしないか。
学校の先生は、いつ生徒が間違いを犯して責任を問われはしないか。
学者は、間違いを指摘されはしないか。
労働者は、解雇されやしないか。
ローンを支払う者は、失業が怖い。
年寄りは、自分が家族から見捨てられやしないか。
母親は、子育てで悩み。子供が問題を犯すことを怖れている。
恋人は、捨てられることを怖れる。
罪人は、法を怖れる。

失敗や過ち、欠点を許せない社会は、ただ、罰する事しかできない。

許す者が不在な世界では、罰はあっても赦しがない。
赦しがないから癒やされることがなく。
心は病んでいくのである。

金持ちは金があると言って責められ。貧しい者は、金がないといって責められる。
力ある者は、力ある故に責められ。力なき者は、力がない故に、責められる。
勝者は追い詰められ、敗者は侮られる。
名声ある者は飾り、名声なき者は隠れる。

神がいなければ、人は奢り、昂ぶり、争う。

認め合い、許し合い、助け合い、分かち合うことが許されない社会である。
競い合い、闘い合い、蔑み合い、騙し合うしかない世界になってしまう。

救いがない。
正しいことをしたとしても、許されはしない。
過ちは罰せられる。
恐れおののいて何もしなくなる。

赦しがないから結婚なんてできはしない。
結婚しても続かない。
互いに認め合い、許し合えないのである。
自分の過ちを許すことも、相手を許すこともできなくなるのである。

自分を許せないから相手も許せず。
互いに罵り合い。憎み合い事になる。

先ず、神と向かい合い、素の自分を取り戻すことである。
あるがままの自分を受け入れることである。

自分を認め、信じることができないから他人を妬み、嫉妬するのである。
自分を認め、相手を認め。自分を信じ、相手を信じる。
妬み合いや憎しみ合いを抜けだし、助け合いや分かち合いができるような関係を築くことが不可欠なのである。
そのためには、自己を超越した存在として人は、神を必要とするのである。

今の世の中は、親子、兄弟、姉妹ですら信じ合い、愛し合い、助け合うことができない。
親捨て、子捨てが当たり前の世になりつつあるのである。

あるがままの自分を露わにするのは懺悔である。
だからこそ懺悔が大切なのである。
懺悔を受ける者、懺悔をする者を仲立ちする存在が重要となるのである。
また、他人の懺悔を虚心坦懐に聞く存在が必要となるのである。
それが神である。

心の病を癒やすカウンセリングの原型は、懺悔にあると私は思う。
神への懺悔こそ心の病を癒やす原点なのである。

懺悔をすることによって自分を鏡に投影する。
懺悔をする事によって素の自分に向き合う。
そして、素の自分を直視し、認めた時に癒やされるのである。

ただ懺悔は、罪の償いを前提としている。
大切なのは、罪に関わりなく素の自分を写しだし、それを受け入れ、許すことである。

故に、懺悔によって癒やされるとは限らない。
カウンセリングは、カウンセラーに自分を映し出すことである。
カウンセリングを通じて自分を知ることである。
ただカウンセリングをしたからといって自分が許されるわけではない。
カウンセリングの根本は、自分で自分を許し、癒やすことである。

懺悔には赦しはあるが、癒やされるわけではない。
カウンセリングには癒やしはあるが、赦しがない。

やはり、究極のカウンセリングは、信仰なのである。

自分を許さず。他人も許さない。
誰にも癒やされることなく孤独に生き死んでいく。
それが神が不在な世、金の世界、物の世界に生きる者の宿命である。

信じ合い、愛し合うことを根本としなければ神の国は実現しない。

心の病を癒やす為に、一番効果があるのは、神について、神の許しについて語り合うことである。
神の超人的な能力とか、霊的能力ではなく。
神を身近に感じる事をお互いに語り合い。
神を通じて自分の存在や人生、生き方を再確認することである。
又、懺悔し、悔い改めることである。

神は、理想。
神は、純化された自分。
神は、鏡。
神は、純真。
神は、無垢。
神は、自然。
神は、赦し。
神は、救済。

何を始めるにも前と後に神に感謝し、祈りを捧げる。
特に、カウンセリングを受ける前。
懺悔する時。
決心する時。
勝負する時。
それだけでも随分と癒やされる。
それだけでも随分と救われる。

今、社会も、国家も、世界も、心を病んでいる。
国も社会も心がある。
その心を病んでいるのだ。
それぞれの国には歴史があり、言い分があります。それは、まるで人と人との間の関係や言い分に似ている気がします。国も心かあり、その心を病んでいる。それが、正しき者が虐げられ悪を栄えさせている。
大切なのは、いかに人々の心を癒やし、未来に向けて心を一つにしていくかだ。

お互いが、歴史とか、欲望によって争い合う。しかし、その大本には神がいない。

あなたにとって神とは何ですか。
あなたにとって神とは、どの様な存在なのですか。

自らの神に自分の思いを懺悔した時、はじめて自分の進むべき道が明らかになる。

今、社会も、国家も、世界も、心を病んでいる。
社会や、国、人々の心を癒やす事こそ究極のカウンセリングかもしれない。

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