2013年7月30日

神について思う

踏み絵



 事の正否、善悪を神に問う事なかれ。
 神は沈黙する。
 神はただお示しになるだけである。
 事の正否、善悪は、自らに問え。

 今もし、踏み絵を踏まされる様な事態になったら、堂々と踏めばいいと私は、言いたい。

 大体、一神教は、偶像を否定しているのである。
 それに、偶像を崇拝した事で人の命が奪われるようでは、本末の転倒である。

 それよりも、踏み絵を踏めないで、信仰を捨てる者が現れるとしたら、それこそ問題である。

 踏み絵というのは、その人の心の有り様を試す事である。
 神は、全てを許されている。
 むしろ、踏み絵をすることで神への信仰を失ったり、神を試すことの方が問題なのである。
 踏み絵をしたからと言って神が罰を下すという事はない。
 もし、罰せられたとしたら、その人の心が罰を下しているのである。

 ただ、踏み絵に関しては、今だから、私は、言えるのである。
 確かに、今でも踏み絵を踏めない者がいるかもしれない。

 結局、何が正しくて何が間違っているかの答えは、自分で出す以外にない。
 神は、その時、沈黙する。

 踏み絵は、踏み絵を試されている者の心の問題である。
 神の側の問題ではない。
 例え、踏み絵を踏んだとしても信仰に変わりがなければ踏み絵は単なる偶像すぎない。
 しかし、踏み絵がその人にとって特別な意味を持った時、それは障害となるのである。

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 我々は、踏み絵と同じような判断を日常的に求められる。
 何が正しくて、何が間違っているのか。
 とっさのは判断が求められるような出来事は日常茶飯事である。

 踏み絵を踏むべきか、踏まざるべきか。
 それは自分の心の有り様の問題である。

 正しいと信じて判断した事によって絶望的な状況に陥ったり、よかれと思ってした事で責められたりする。
 何が正しくて、何が間違っているのか。
 迷う事ばかりである。
 しかし、決めなければ先に進めない。
 不決断も誤判断の一つである。
 決断をすればその結果は、すぐに現れる。
 だからといって何も決めなければ、事態は、自分を取り残して進んでしまう。

 しかも、間違いは、自分一人では済まない。
 自分の間違った判断は、周囲の人間を巻き込んでしまう。
 責任ある立場にあればある程、影響する範囲は大きく、広く、又、深くなる。

 目の前で線路に人が落ちた時、
 子供を叱るべきなのか、慰めるべきなのか迷った時、
 相手を信じるべきか、疑るべきかが解らなくなる時、
 常に、自分の有り様が問われてくる。

 しかも、どんな決断にせよ覚悟必要となる。
 何気なく言った言葉で人は傷ついたり、場合によっては、死を選ぶ事すらあるのである。

 しかも、それが、経済の問題、即ち、お金の問題にすり替わってしまうと尚更の事である。
 事が善悪ではなく、選択の問題にすり替わってしまうからである。
 しかし、それは本当にお金の問題なのであろうか。

 最初は、お金ではなく、家族への愛情、仲間の義務として行ってきた行為も、お金に換算されてしまうととたんに取引に姿を変えてしまう。労働の意味が単に対価を求める行為に均一化されてしまう。
 お金の為ではないと言っても空しくなってしまう。
 料理も、掃除も、子育ても、親の世話も、なぜ、私だけが背負わなければならないのという事になる。
 それが現代の病巣である。

 親の面倒を見るという事と、親を施設に入れ、制度に任せるという事は同じ意味なのだろうか。
 よくよく考えなければならない。
 しかし、現代社会では否応なく、経済的に同じ事とされてしまうのである。
 金のない者は、自分で親の世話をしなければならなくなり、金のある者は施設に入れる。ただ、それだけの問題だとされてしまうのである。
 そうなると元気な年寄りは、誰の世話にもならないと言うようになる。金が全てを解決するのである。年をとると金に対する執着心が強くなる。
 逆に年寄りを騙して、金儲けを企む者が増えるのである。

 どの様な人生を歩いて行くのか、現代では、それは経済の問題に姿を変えて現れてくる。
 どの様に何を学び、どの様な仕事を選び、どの様に働いて、どの様に人を愛し、どの様な家庭を築き、どの様に老いていくのか。現代では、それは経済の問題である。
 経済の問題だから選択問題ではない。是非善悪の問題ではない。
 だから曖昧模糊になるのである。

 正しい生き方をしたからと言って金が儲かるとは限らない。
 あくどい事をして金を儲けた者もいる。
 金に支配された世界では、金を儲けに成功した者が成功者である。

 現代経済の問題点は、全ての価値を貨幣価値に還元してしまう事である。
 そのために、人間、本来の生き方や価値観が失われている。
 神に対する信仰ですらビジネスに堕してしまう。
 人間の多様な生き方に適応できなくなるのである。
 人の生き方は画一化してしまう。
 その証拠に、民族衣装は廃れつつある。
 世界は、同じブランドの服を着るようになりつつある。

 宗教の根本にあるのは、人間、いかに生きるべきかである。
 なのに、いつの間にか、宗教は、いかがわしい商売のネタのようにしか思われなくなってしまった。
 かつて聖職者は、質素で清潔な生活を送ってきたのである。
 現代では、既存の宗派の聖職者は葬儀屋か結婚式場の営業員のようになり、新興宗教は、霊感商法に明け暮れている。
 若者達は、宗教をいかがわしくて怪しい商売だとしか受け取らなくなってしまった。

 現代経済から人間性が失われちつつある。それは、人間本来の持つ、素朴な神への畏敬心が失われてからである。
 山野、ただ、人々の欲望を満たす為にのみ存在するのである。
 この地から聖地は失われようとしている。
 かつて、木こりは、一本の木を切り倒すだけでも山の神に祈りを捧げ、神の許しを請うた。
 現代では、乱伐によって巨木が失われ、神木を枯らしてまで金を儲けようとする者が現れる。
 彼等は、木を切り倒す事に、何の痛みも感じず、何の罪悪感も、後ろめたさも感じないのである。問題なるとしたら、法に触れるか否かである。
 それは精神の貧困である。
 大地は乱開発され、川や海は汚された。山野や河川を住処とする生き物たちの多くは絶滅の危機に瀕しているのである。

 経済が荒れるのは、信仰心が失われたからである。
 市場から信仰心がなくなれば、市場は金だけに支配された世界になる。
 祈りも、贖罪も市場から消え失せてしまう。

 自由主義経済にとって必要不可欠なのは、信仰心である。
 市場に畏れを抱かなくなった結果、金融危機は訪れたのである。
 金を儲けて何が悪いと市場から道義心が失われた。
 金儲けには、道徳は無縁なのである。
 人々は、金に許しを請うようになった。
 しかし、金儲けは手段である。
 その結果が、大恐慌であり、金融危機であり、貧困であり、戦争である。
 大切なのは、そこに生きる人々の生活なのである。

 医術は算術となり、医学は、病を治す事を目的とせず、金儲けを目的とするようになった。
 地獄の沙汰も金次第である。
 しかし、人々は生病老死の四苦から解放されているわけではない。
 人は、死の前に平等なのである。
 人は、生まれ、病み、老い、死んでいく。それは人生である。
 人生の節目節目に医療は関わっている。
 人の肉体を癒やし、心を癒やす事が医療本来の仕事である。
 人は、いつか必ず死ぬ。
 その死に際して、医者はどう関わっていくのか。
 人をいかに苦しみから救うのか。それこそが医療本来の目的であるはずである。
 そうなると、ただ、病を治せば良いと言うわけにはいかない。
 医療は、人々が、生きる事に立ち会わなければならなくなるのである。
 手足を失った者がいかに生きるのか。
 目が見えない人がいかに生きるのか。
 持病に苦しむ者がいかに生きるのか。
 それを共に考え、癒やしていく事が医療なのである。
 それは、祈りにも似た行為である。

 いつ生命維持装置を外し、いつ治療を止めるのか。
 その選択を、常に、医者は求められているのである。
 死ぬと解っている患者に対して、苦痛を和らげる事を優先するのか、それとも治療を優先すべきなのか。
 医療の現場では決断を求められる。

 若い医者の中には、病気になった事自体が罪悪であるかのように患者を責め。
 相手の苦痛を理解しようともしない者すらいる。
 それを医療とは言わない。
 医療が経済の問題に特化してしまった事が問題なのである。

 自分を許せなければ、医者は、自分の心を保つ事もできないのである。

 人を裁く者は、常に冤罪に苦しめられる。
 裁判官には、全てを見通す力はないのである。
 証拠や証言をつなぎ合わせて真実を推測し、罰を算出するのである。
 しかし、確証は、当人にしか解らない。
 人を裁く者も裁かれるのである。
 だからこそ、人を裁く者は、神を必要としている。
 故に、神への宣誓を前提とするのである。
 神への宣誓によって自分で自分を裁くのである。
 人は神にはなれない。

 たった一発の爆弾によって十数万人の日本人の命が一瞬にして失われたのである。
 科学者が奢ればどれほどの惨禍を招くのか、計り知れない。
 しかし、科学者には自覚が足りない。

 科学者は全知全能にはなれない。
 科学は、形而上の問題には触れられない。
 科学は形而下の問題について、つまり、表に現れた物と物の関係について解明してきただけにすぎない。
 しかし、科学は、根源的な問題には何一つ触れていないのである。
 科学は神の領域には立ち入れない。
 絶対的存在を前提とするから、相対的認識が成り立つのである。
 科学は神を超える事はできない。
 なのに、現代、科学は神の如く振る舞う。
 その結果、核兵器であり、化学兵器であり、環境破壊であり、心の荒廃である。
 科学者は一体何を目指してきたのであろうか。
 人々を幸せにするはずの学問が、人々を殺戮する為の兵器を作り、人々に不幸の種を蒔いている。
 神の栄光の証を明らかにするはずが、人々から神を遠ざけるための根拠を明らかにする手段に変質してしまった。
 しかし、科学は神の偉大さを証明しただけで、神を否定する徴(しるし)を見いだしたわけではない。
 人類を何万回も殺戮しきれる兵器を作り続けるなど愚かな事である。
 それが科学の成果というなら、そんな科学はいらない。

 答えは、人類が出さなければならない。
 その時、神は沈黙する。
 ただただ、神は、お示しになるだけである。

 結婚とは何であろう。

 今、生涯結婚しない男女が増えている。

 結婚しないのか、結婚できないのか、それは、確かに異質な問題かもしれない。
 しかし、とにかく、一生結婚しない人が増えている事は事実である。

 多くの人は、結婚できない理由として、結婚したら、家庭に入らなければならないとか、仕事ができなくなる事に求める傾向がある。
 だから、保育園の数を増やせば良いという結論になる。
 しかし、若い女性が結婚に踏み切れない理由は、保育園の数にあるのだろうか。

 結婚をする為には多くのハードルがある。その一つ一つを超えていかなければならない理由が見いだせないからではないのか。
 そして、その一つ一つが若い男女にとって踏み絵なのである。
 かつては、そのハードルを越える為に家族や社会が後押しをしてくれた。
 今は、一人でそのハードルを越えていかなければならない。
 その途中で挫折をしてしまうから結婚をしない、又は、結婚できない男女が増えているように私には、思えるのである。
 苦労してまで、そのハードル超えなければならない意義が見いだせないのである。

 言い換えれば、多くの人は、結婚という踏み絵を踏めないでいるのである。

 なぜ、人を愛し、子をなし、家族の世話をするのか。
 その一つ一つを考え、確認し、一歩一歩、結婚へと近づいていく。

 その道を先導してくれるのが神である。

 子供を産むのでさえ覚悟がいるのである。
 子供は自分達の快楽の結果、生まれるのではない。
 子供は神の祝福を得て生まれてくる。
 子供こそ愛情によって育まれるべき存在なのである。

 神は応えてはくれない。
 ただ、傍らにいて見守っていてくれるだけである。
 答えは自分達で出さなければならないのである。
 そして、最後に神に許しを請い、神の祝福を受けるのである。

 ただ経済的理由だけなら結婚なんてしない方が楽である。
 結婚をすれば経済的負担は増えるし、精神的、肉体的負担も増える。
 何のメリットもないのに、結婚する必要があるのか。
 世間体を気にしてなんて言っても、世間体を気にする者など今は居やしないのである。

 結婚は、生きる事の意味を知る為にするのである。
 生きる為の意味を知ると言う事は辛く苦しい事を伴う。
 辛く苦しい事を共に克服するから結婚する意味がある。
 それをお金の問題で捉えていたら理解する事はできない。
 お金は所詮、手段であり、道具なのである。
 手段を目的だと思っているかぎり、目的は達成できない。
 目的は、生きる事であり、幸せになる事である。
 結婚は自分を知る為にするのである。
 結婚の本質は愛である。
 人は不完全な存在だからこそ結婚をするのである。
 補い合う為に結婚をするのである。
 補い合う事で人生を完成する為に結婚するのである。
 お金の為に結婚をするわけではない。

 結婚も現代の踏み絵である。
 この様にして、我々は、知らず知らずのうちに踏み絵を踏まされているのである。

 我々は、普段、人を殺す事は、最も重い罪だと教え込まれている。
 しかし、戦場に投げ出されたら、目の前の敵を殺さなければ生き残れない。
 敵を倒さなければ、自分ではなくて自分の仲間や家族が、その敵に殺されるかもしれないのである。
 戦争は過酷である。しかし、戦わなければ、自分や家族が奴隷にされ、国が滅んでしまう。
 戦えば、国民は塗炭の苦しみを味わう事になる。国民だけでなく、戦場となる国の人民も、相手国の国民も惨禍に巻き込まれる事になる。その恨みは、子々孫々へと引き継がれていき争いの火種になる。
 戦わずして独立を失えば、人としての尊厳は踏みにじられ、自分や自分の家族、同胞の運命さえも自分達で決められなくなるのである。
 戦うべきか、戦わざるべきか。

 これも又現代の踏み絵である。

 地震に、津波、原発事故。
 神は、お示しになった。
 それに答えを出すのは、我々、人間なのである。
 その答えのありようによって我々は、裁かれ、或いは、報われるのである。

 答えは一つではない。
 一つではないから人々は言い争うのである。
 人は、迷い、苦しみ、のたうち回る。
 原発にたとえれば、原発は促進派と反対派がいる。
 そして、各々、自分が正しいと言い張っているのである。

 誰もが正しいと思い、相手の考えは間違っていると責める。
 それでも、折衷案であろうが、独断であろうが、一つの結論を出さなければならない。
 何が正しくて、何が間違っているかは、結局、自分に問い、自分を信じるしかないのである。
 それが人間である。

 だからこそ、人は、神に救いを求め、神に許しを請うのである。
 神を必要としているのは人間である。
 人は神にはなれない。

 神を否定する者は、自らを神とする。
 自らを神としたら、自分の過ちや誤解を認め、悔い改める事が難しくなる。
 自分の過ちを許す存在がいなくなるからである。
 人が傲慢になり、神を侮り、否定したら、神の救いは受けられないのである。
 それは神の罪ではなく、人の罪である。

 踏み絵は、踏み絵を強要する者の心の問題であり、また、踏み絵をさせられる側の心の問題である。
 神の問題ではない。神は全てを許されているのである。
 踏み絵によって裁かれるのは、むしろ、踏み絵を強要した者である。
 踏み絵によって罰せられるのは、踏み絵を強要した者である。
 又、罰を下すのは、その人の心である。

 神は、踏み絵に対して人を裁いたり、罰したりはしない。

 神は人を試したりはしない。
 試す必要がないからである。
 人か神を試すとしたらそれも又傲慢な事である。

 神は、常に、私たちを見守っていてくださるのである。

 神に問う事なかれ。
 答えは自らに問え。

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