2013年7月11日

神について思う

市場とコミュニティ


 今、街から人が消えつつある。私は、東京生まれの、東京育ちである。私が子供の頃から東京は人の住むところではないなどと悪口を言われてきた。それでも、私が子供の頃は、そこそこの路地裏や下町には人々の生活や活況があった。しかし、今、東京は、ビルの無機質な空間によって占められようとしている。人々の生活の臭いが失せてしまった。
 広大な倉庫のような店に、ただ、商品を積み上げ、店員は、レジ係と警備員、倉庫係だけ、そのレジすら無人化しようとしている。そうなると、店に残るのは警備員と倉庫係だけである。
 巨大な店の周りには、大勢の失業者であふれかえっている。その失業者は、失業保険や補助金で生活している。それが現代の経済を暗示しているのである。
 失業しても自分で商売を始めることができない。働きたくとも働けない。つまり、自分で商売を始めることのできない環境があるのである。
 自分が子供の頃は、八百屋の息子、花屋の娘、魚屋の兄ちゃん、たばこ屋のおばさん、下駄職人の息子と多種多様な職業の人々が混在して生活していた。今は、給与所得者しかいない。だから、不況になり、多くの企業か倒産すると行き場のない失業者に街はあふれるのである。
 今の日本は、家族とか社会と言ったコミュニティが崩壊してしまったである。それが、地方から活力を奪っているのである。
 現代人は、高齢者対策や育児対策として考えるのは、制度や施設と言った無機質なことばかりである。しかし、昔の人は、道徳や家族、近所づきあいと言った人の問題を核として考えていた。家族という人間関係が損なわれているのである。個人を基本とした経済体制を考えるのは良いが、それが家族という経済単位を否定する事に結びつくのは問題である。
 制度や施設を整えることを否定はしない。しかし、それは補助的な手段であり、主たる手段の主体は、家族や地域コミュニティにある事を忘れてはならない。それを忘れると制度も施設も経済的に成り立たなくなる。
 少子化の背景には、未婚者、生涯独身者、晩婚の問題がある。
 なぜ、現代の若者は、結婚をしないのか。それは、結婚をすること意義を見いだせないからである。結婚をする必要がないから、つまり、家族を作ったり、家族を必要とする意味が見いだせないからである。
 以前であれば、経済的にも、また、高齢化した時でも家族を必要とした。家族がなければ生活が成り立たなかったのである。
 しかし、現代社会では、家族を作らなくても日々の生活には何の支障も生じない。
 生じないどころか、むしろ、負担ばかりが多くなる。金で済まそうと想えば何でも金で済む。仮に、結婚する必要性があるとしたら、それは、寂しいという事である。
 そう言った状況を又、金や物で解決しようとする。例えば、保育園を増やし、又、介護施設を増やし、介護保険や制度を整えれば、結婚する気になると考えている。しかし、それは、逆効果である。
 人と人との関係を再構築し、封建的な家族制度に変わる新しい家族制度や思想を醸成する以外に未婚者を減らすことはできないのである。
 何でもかんでも、金や物の問題として考え、金や物を整えれば解決できると現代人は考えている。しかし、我々の祖先は、人間の心の問題、道徳や価値観の問題として捉えてきた。
 社会の問題を物質的な問題とするのか、それとも人間の心の問題とするのか、その違いにこそ現代経済の病巣が隠されているのである。
 人のいない空間でどうやって経済を活性化しようというのであろうか。
 経済の主役は人なのである。
 人の問題は、所得の問題に還元される。所得問題を市場側から見ると人件費、即ち、費用の問題となる。
 景気が悪くなると、現代人はも費用が悪いとと決めつけ、費用の中で最大の固定費である人件費の削減ばかり考える。そのために、結局、経済は縮小均衡の方向に向かうのである。なぜならば、費用を裏返すと所得となるからである。
 費用が悪い、借金が悪いと費用や借金をただ否定しているだけでは、費用や借金の効用を引き出すことはできない。
 市場経済は、裏返してみれば、費用と負債の経済なのである。
 費用や負債を直視しないかぎり財政破綻からも逃れることはできない。
まず、人間性を取り戻すことが経済を立て直すことに繋がるのである。
 街には、スーパーができやがて郊外型ショッピングモールができ一見住みやすくなったように見える。しかし、スーパーや量販店によって中小の商店がシャッター街に替わり、そのスーパーも郊外型大型店の進出によって淘汰され、郊外型ショッピングモールも競争によって選別が始まっている。その結果、高齢者が歩いて行ける範囲にお店がなくなり、地域の共同体も失われてしまった。周囲に歩いて行ける商店がなくなり、たとえ都会の真ん中に家があったとしても経済的に孤立してしまう。それが買い物難民と言われる人々である。この買い物難民が急増している。
 地域経済の核が失われつつあるのである。
 土地があっても自分では商売をせずに、貸しビル、駐車場にしてしまう。貸しビルや駐車場によって東京はゴーストタウン化している。
 その上、町工場は倒産し、大型工場は無人化しています。これでは経済は活性化しようがない。求められているのは貨幣的効率と物理的効率だけだからである。そのしわ寄せが人間の生活に及んでいるのである。
 小さな雑貨屋に小金を持った子供が来て「おばちゃん、これちょうだい」という世界を否定して成り立っているのが現代社会である。
 競争、競争と煽る前に、まず、シャッター街をどうにかすることが経済を活性化する鍵を握っているのだと思う。
 そして、自分の家を大切する事なのである。家族の絆こそ、財政を再建する鍵でもある。
 地域社会では、年寄りだけの空間が広がっている。なぜ、年寄りだけの空間が広がるのか。それは、年寄りにとって田舎が住みやすいのに、若者にとつては住みにくい。なぜ、こんな事が生じたのであろうか。
 一つは、個人事業者が成り立たなくなりつつあることである。もう一つは、都市化の問題である。本来ならば、地方の方が住みやすいはずである。それを住みにくい環境にしてしまった。しかし、交通機関が発達し、情報ネットワークが張り巡らされた今日は、状況が又変わりつつある。在宅勤務、在宅医療を発達させれば、かえって地方の方が住みやすくなる。つまり、人間の生活、人生全般を設計し直すことで、経済を根本から考え直す。そこにしか、財政の再建や新しい経済の発展の芽はない。
 人間中心の経済を取り戻すこと、それこそが経済成長の鍵である。

 エコノミーのエコというのは、元々、オイコス(oikos)、即ち、家とか、共同体を意味している。ノミーは、ノモス(nomos)規則、規範を意味し、エコとノモスが結びついてエコノミーになった。エコロジーは、エコにロジー(ロゴスlogos)論理が結びつくことによって出来ている。本来、経済の本質は家や共同体にあった。
 家族とは、経済の基本単位である。家計は、経済の本質であり、力の源である。この家族という基本単位が揺らいでいる。共同体が崩壊しているのである。(「経済学の哲学」伊藤邦武著 中公新書)

 市場経済は、市場と共同体からなる。
 共同体は、市場という大海に浮かぶ島のようなものである。
 人の生活は、本来、コミュニティの内部で営まれる。市場は、謂わば、化外の世界にあったのである。
 共同体は、第一に、道徳的空間である。第二に、非貨幣的空間である。第三に組織的空間である。第四に、人間関係によって形成される空間である。それに対して、市場は、第一に、非道徳的空間である。第二に、貨幣的空間である。第三に、自由空間である。第四に、取引的空間によって形成される空間である。
 共同体、即ち、コミニュティが、今日、浸食されつつある。そして、人間関係が取引関係に変質しつつある。全ての労働が外在化され、貨幣化されつつある。
 コミュニティ内部というのは、本来、お金と無縁な空間である。お金ではないよと言われる世界がコミュニティの内にあったのである。しかし、今、コミュニティ内部まで、お金の関係にとて変わられようとしている。そのために、愛情まで取引の材料にされつつある。好例が、福祉である。福祉政策といえば何でもかんでも施設や制度を作ることだと錯覚している。かつて高齢者の介護はコミュニティの仕事であった。そこで、大切なのは道徳である。しかし、今の高齢者介護は、モラルよりもお金であり、取引である。

 かつて、コミュニティの中心に神が存在していた。その神が現代社会では不在なのである。
 一体、人間の幸せとは何なのか。
 コミュニティが失われることで人と人との関係が希薄になる。残されるのは、深い、深い孤独である。そこで孤独死が問題となる。しかし、それは人間が自分の手で蒔いた種の報いである。

 かつては、家から歩いて行けるところに何でもあった。賑やかに商店街があって町内の人間はみんな顔見知りである。何かあるとすぐにお節介を焼くから孤独死なんてしようがなかった。
 それは鬱陶しいしがらみもある。村八分のような制約もある。
 それでも苦しい時は、助け合い、物が不足すれば、分かち合って生きてきたのである。
 正月には、親戚中が集まってきて旧交を温め、春には、お節句、夏は盆、秋は秋祭りと、神を中心とした生活を営んできたのである。
 会社だって、新人が部屋がなければ部屋を探し、嫁がいないと言えば、嫁を世話したのである。
 夏には海水浴、秋には、運動会と喜びも悲しみも伴に分かち合ってきたのである。
 義理人情の世界だったのである。

 カラカラと裏通りを歩けば、小粋な小料理店があり、格子戸をガラガラと開ければ、顔なじみが待ってましたと迎えてくれた。今は、高級なビジネス街の中にオフィスのような店があるだけである。

 一体人間は、何を理想としているのであろう。
 人間にとって幸せは、理想とはかけ離れたものなのだろうか。
 この世で一番問題なのは、神なき世界になったという事である。

 信仰心のない者が国を治めた時、世界は、破滅へと向かうであろう。

 神を否定する者は、自らを神とするからである。




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