2013年7月11日

神について思う

神は沈黙する。ただ、お示しになるだけである。







 神は沈黙する。ただお示しになるだけである。

 イエスが十字架に掛けられた時も、救いを求めた時も、神は、沈黙を守られた。 ガリレオが裁判に掛けられた時も、神は沈黙した。
 多くの聖人、賢人、予言者達が迫害され、拷問され、弾圧され、処刑され、或いは惨殺された時も神は沈黙された。
 広島や長崎に原子爆弾が落とされた時も神は沈黙をした。
 津波や地震、火災によって多くの人々が犠牲になった時も神は、沈黙された。

 神は、沈黙をする。しかし、お示しになる。

 古人は、国破れて山河ありと嘆き。

 諸行無常と悟り、奢る者久しからずと諫めた。
 海を汚し、大地を切り裂き、天にけがしても、恥じる気配すらない。

 それでも、神は、沈黙をする。ただお示しになるだけである。
 信仰心なき者が国を治めるべきではない。  共産主義や社会主義の失敗の原因はそこにある。
 信仰心なき者は、畏れを知らないからである。  ただひたすらに己の欲望を追求する。

 人が争いを止めないかぎり戦争はなくならない。
 それは、人の問題であり、神の問題ではない。
 人が戦を始めようとしても神は沈黙している。
 只、戦争の悲惨さをお示しになるだけである。
 それをどう受け止めるかは人間の問題である。
 国が生まれるずっと以前から神は存在し、たとえ、国が滅んだとしても神は存在する。
 歴史、歴史と言うが、億千年もさかのぼれば、領土も国境も存在しなかった。
 領土も、国境も人間の都合でできたものである。
 いわば、領土も、国境も神から奪い取ったものである。
 神が生み出したものではない。
 人間が自分達の都合で作り出したもので争ったしても、それは人の罪である。
 神のうかがいしるところではない。

 嫉み合い、憎しみ合い、争い合うのは、人の罪である。
 助け合い、分け合い、話し合えなれければ、争いは絶えない。
 平穏を求めればえられるものをなぜ、人は、争いあうのか。
 人が争いを求めるかぎり、平穏は訪れない。
 この地に平和をもたらすのは人である。
 そのためには、自分と自分以外の人を許さなければならない。
 自分と自分以外の人を許す為に、神は求められるのである。

 競い合い、戦い合い、殺し合えばいつか人類は破滅する。
 許し合い、慈しみ合わなければ、平和は訪れない。

 人間は、歴史から何を学ぶのか。
 それは、人間の愚かさである。

 人類が滅亡しようと神は沈黙する。
 只お示しになるだけである。
 人類が滅亡するのは、自らの罪故である。
 人類を滅亡から救うのは、人間である。
 只、人は神に救いを求めるだけである。
 神が救えるのは、人の心だけである。
 人類を救うのは、人である。

 人間が住めなくなるような環境にしているのは人間である。
 人が快適に住めるような環境を作るのも人間である。
 人間が住めなくなるのは、神の罪ではない。

 海を汚(よご)しても神は沈黙している。
 大地を切り裂いても神は沈黙をしている。
 空を汚(けが)しても神は沈黙している。

 しかし、海は荒れ狂い。
 大地は、汚染され、養分が失われる。
 空には、毒がまき散らされる。

 それは人の行いである。
 人が悔い改めなければ、神は、黙ってお示しになるであろう。





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