2013年2月6日

神について思う

アラジンと魔法のランプ



私は、待っている。

子供の頃、アラジンと魔法のランプの話を聞いた。

ランプの精は、ひたすら、自分を解放してくれる者を待ち続けた。
最初は、自分を解放してくれる者がいたら、その者の願いをかなえてやるつもりでいたと告白する。
ところが、何年たっても現れない。そこで、最初の思いは恨みとなり、自分を解放した者を祟ってやるという気持ちに変わったといってアラジンに襲いかかる。
しかし、結局は、アラジンの陥穽に落ちてアラジンの願いを聞いてやることになる。

問題は、自由と呪縛である。
ランプの精はかつて万能な力を持ちながら、勝手気ままな行いの報いによって狭い空間に押し込められる。自由を奪われるのである。
そして、自分を狭い空間、制約から解放し、自由にしてくれた者に服従しようと最初は、誓う。
そこが重要なのである。しかし、その願いが聞き入られないとなると逆恨みをする。
それでは待っている意味がない。
何から自分は、解放されたいのか。
自由の意味はそこにある。
己(おのれ)を縛っているのは、己ではないのか。
結局、能力の問題ではない。能力がなくても自由になれる。
自由とはそういうものである。

いったい、ランプの精は、なぜ、ランプの中に閉じ込められたのか。
ランプの精をランプの中に閉じ込めている力はどこから来るのか。
その力にこそ、自由の秘密が隠されている。

孫悟空は、五行山に封じ込められて、ひたすらに、三蔵法師が来るのを待つ。
そして、孫悟空は、三蔵法師のお供をして、天竺へと旅するのである。
孫悟空も神に近い万能の力を持つ。しかも、不老不死である。
それが、釈迦の法力に負けて自由を奪われる。
自分を解放してくれた師匠の元に渋々従って行くうちに改心する。
師匠の三蔵は、無力で、時として、愚かですらある。
しかし、真理を求めるひたむきさがある。
三蔵には、心の渇きがある。
三蔵には、望みがあるのである。
三蔵には、夢や希望があるのである。

悟空と三蔵は常に師弟関係にあるといいながら葛藤し続けるのである。
それは、悟空には、三蔵の望みの本源が解らないからである。
悟空は、望めば、いつでも、一っ飛びに天竺にいける。
なぜ、三蔵の供をして苦労をしながら歩いてお釈迦様のもとに行かなければならないのか。
三蔵は、無力で、愚かだからこそ、志が持てるのである。

魔神にせよ、悟空にせよ、何でも自在にする力を持っている。
しかし、自在な力があるからといって自由になれるわけではない。
自分の持てる力を自分以外の者のために使うからこそ、力の真価を発揮することができるのである。
それが自由の本質である。
なにが、魔神や悟空を縛り。
なぜ、魔神や悟空は、自由になれないのか。

魔神をランプに閉じ込めたのは、魔神の所行である。
己の所行によってランプに閉じ込められたことを自覚しなければ、魔神はいつまでたっても自由にはなれない。

悟空にできて、三蔵にできないことは沢山あるのである。
悟空には、見えても、三蔵には見えない世界がある。
悟空の知識は、三蔵よりも遙かに上である。
なのに、悟空は、三蔵に従って旅するのである。
そして、三蔵に従って旅を始めた時から悟空は、悟空になるのである。
つまり、本来の姿を悟空は取り戻すのである。
そして、それが悟空の存在意義でもある。

悟空は、三蔵がいなければただの悪猿である。
無頼漢である。
三蔵がいるから、悟空は、ヒーローになれるのである。
その辺の処を現代人は理解していない。
万能の力を発揮する科学という力を現代人は、手に入れた。
しかし、現代人には、三蔵がいない。
だから、結局、無頼漢でしかないのである。
我が儘、勝手に暴れまくる。
それを自由だと思い違いをしている。

自由とは何か。
どうやら、何でも思い通りにできることを自由というのではないようである。
なにが、人間を自由にするのか。
何が現代人には欠けているのか。
自由の意味を知るためには、現代人に、何が欠けているのかを考える事が早道なのかもしれない。
現代人は、自分が、どこへ行こうとしているのか、どこへ向かっているのかが解らないのである。
現代人に欠けているのは、望みである。
現代人に欠けているのは、渇きである。

現代人はいったい何を求め。どこに行こうとしているのか。
肝心なのは、内心の動機である。要するに望みである。

魔神は、自分から人の役に立ちたいと思わなければ、結局、ただ服従するしかない。
服従しているだけでは、いつまでたってもランプの外に出ることはできないのである。
悟空は、自分の意志で三蔵に従わないかぎり、自分の頭を縛る金冠を外すことはできない。志を同じくした時、悟空と三蔵は、同じ立ち位置にいる事になる。そうなれば、三蔵は、悟空を縛る意味がなくなる。悟空は、自分の意志で天竺へと旅していることになるからである。

重要なのは、自分が、何を、信じ、何を、望むかである。
何も望まぬ者は、自由にはなれない。
何かを望むのは、自分の意志があるからである。
意志は、自分の主体性の表れである。
主体性の発揮こそ自由の本質である。
それ故に、望みこそが自由の源なのである。
自分の望みを実現しようとするところに自由はある。
そして、望みが凝縮したところに志すところがある。

現代人は、なぜ、何の目的で科学を発展させているのかを忘れている。
経済もしかりである。
だから、人々を幸せにするはずの科学や経済が人々を修羅場へと誘い込むのである。

志すところは、何を得たかではない。何を、成し遂げたかではない。
何を望むかが、肝心なのである。
何を得て、何を、成し遂げたかは、結果である。
結果は出たらお終いである。

現代人は、科学という万能の力を持つ魔神の背中に乗っているようなものである。
力が問題なのではない。力をいかに使うかが問題なのである。
そこにあるのは、人間本来の道徳心、価値観なのである。
そして、理想や夢を実現しようとする気、志なのである。

所詮、志の本源は、出世したり、有名になったり、偉くなることではない。
何を望むかである。
どんな生き方をしたいか。どんな、会社にしたいか。どんな国にしたいかである。

地位だの、名声だの、富などは、結果に過ぎない。
手にすれば、淡く消えていく。
望みは、絶えず、自分を鼓舞し、苦悩と喜びをもたらす。
それこそが生きることの証である。

ゴールに達してしまえば、順番が確定し、勝敗が決まる。
しかし、走っている時は、無我夢中で、恍惚としている。

経営者であるならば、金儲けをしたり、会社を大きくすることが目的なのではない。
根本にあらねばならないのは、どんな会社にしたいかである。

そして、それは、ともに働く仲間達が共有している思いである。
その思いにこそ尊さがある。
金を手にしたら、分け前を分配しなければならない。
そうなると、醜い争いが起こる。
ともに目的に向かって邁進している時は、心を一つとしていたのにである。

どんなスポーツでも優勝に向かって一丸となっている時は、ドラマになる。結果はどうあれである。
しかし、勝つにしろ負けるにしろ結果が出たらお終いである。
その先は、新たな目標や的ができないかぎり、ドラマにはならない。
成功は、一つの目標であるが、実現したらそれまでである。
大切なのは、何を信じ、何を望むかである。
だから、生きる真実は、信仰にある。

性の本質は、快楽にあるのではなく、愛にあるのである。
情の本質は、欲にあるのではなく、愛にあるのである。
快楽や欲におぼれて愛の本質を見失えば、性も情も虚しい。

志こそ己(おのれ)の本質である。
志があって夢や理想は生まれる。
まっすぐ、前を見て、自分が何を望んでいるかを見極めることである。
天を目指すのはそれからである。

竜は、青雲の志を手にすると天に昇るという。
私は、竜となるよりも雲となりたい。
雲となって竜を天高く舞い上がらせたいのだ。
志は雲にこそある。
だから、私は、待っているのである。
竜が現れるのを待っているのである。




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