2013年2月6日

神について思う

夢の果てに




 フランス革命、アメリカ独立戦争と人々は、自由を求め、また、人権を求め戦ってきた。
 産業革命や農業革命、科学革命によって物質的に豊かさも実現した。
 科学は、無限の可能性を秘め、原子力のような無限の力をも手に入れたように人類は思ってきた。
 なのに、この砂を噛むような味気なさ、虚しさは、何なのだろう。
 世界は、混迷を極め。世の中から、諍いや紛争が絶えることはない。
 核戦争による人類滅亡に多くの人々は、恐れおののいている。
 一方で大量の食べ物を廃棄処分しているというのに、その一方で多くの人々が餓死している。
 環境汚染は、際限なくすすみ。このままでは、いつかは、人間が住める処さえなくなってしまう様にすら思える。それは、私の杞憂と見逃していいのだろうか。

 近代人は、自由を求め、民主主義を求めて戦ってきた。そして、いざ自由が実現し、民主主義の国になったと思ったのに、結果的に、無秩序になり、人々は、自暴自棄になり。希望がもてなくなり当て処もなく彷徨っている。美しい山河は失われてしまった。
 人々は、快楽や欲望に我を忘れ。愛すら見失ってしまった。
 人々の心は荒廃し、家族は崩壊していってしまう。そこに愛はあるのか。
 産業革命以降、人類は、物質的には豊かになったはずなのである。それなのに、満たされない思いが多くの人々の心に積もっていくのはなぜだろう。
 かつて人々は、希望に燃えていた。
 圧政を倒し、自由を実現すれば、人々は幸せになれると・・・。
 ところが民主主義を実現し、生活が豊かになったというのに、人々の心が退廃化している。
 鬱々として生きる気力さえ失われていくように見える。

 人々の夢や希望はどこに行ってしまったのだろうか。
 夢や希望は幻だったのか。
 手に入れたと思った幸せは虚構だったのか。

 人々の心から希望や夢が失われたのは、なぜなのか、それは、人々から信仰が失われたからである。

 人間は、神を怖れなくなった。
 そして、神を否定して自らを神にしてしまった。
 その結果、人々は、怖れるものがなくなり、その代償として夢や希望が持てなくなってしまったのである。
 夢や理想の根源は、絶対なる存在に対する憧れ、それはまた、神への怖れでもある。
 なぜならば、人の力にも、人生にも、限りがあるからである。
 夢や理想は、それ故に、神聖なのである。
 そして、夢や希望は、信じることによってのみ与えられる賜なのである。
 何物も怖れなくなり、望むものが何でも全て与えられてしまえば、望むことさえ忘れてしまう。
 望みがなければ、希望に向かってどんな苦難にも立ち向かう、そんな気力など失せてしまう。
 だから、人々は、夢を失うのである。
 希望や理想は信仰があるからこそ、意味があるのである。
 神を信じなくなった者達には、夢や希望による救いはない。

 欲望や快楽は、夢や希望にとって代わることはできない。
 夢や希望は、生きる目的となるが、欲望や快楽ははけ口に過ぎないからである。
 根本は愛である。
 人の一生の根本は、性と生と死である。
 それ故に、性と、生と死は神聖なのである。
 神聖ではない性や生、死は、醜悪なだけである。
 特に、性は、快楽と欲望の淵に沈んで身を滅ぼすだけである。
 性は、生と死に結びつけられてこそ意味を持つ。
 だからこそ、性の神聖さは、愛によって裏付けられ、成就する。
 ただ欲望に身を任せれば、堕落し、自滅していくだけである。
 それこそが、現代社会の病巣であり、現代人が夢や希望を持てないゆえんである。
 希望も理想も己に打ち勝った者だけが手に入れることができるのである。
 資本主義であろうが、社会主義であろうが、共産主義であろうが、神に対する信仰を失えば、神の祝福を受けることはできない。神の栄光を成就することも叶わない。

 科学や技術は、パンドラの箱なのか。
 今こそ、神が必要なのだ。
 信仰が必要なのだ。
 さもないと人々を幸せにするはずの知識や技術がパンドラの箱となって人々を破滅へと導いて行ってしまう。

 なぜ、何のために、誰のために・・・。


 私は、ずっと待っている。

 こう言うと不思議に思われる方がいるかもしれないが、私は、経営者になってからずっと待っているのである。

 こんなことを言うと、待ちの経営ですかとか言われそうだが、そうではない。

 第一に、会社を経営する目的は、会社を大きくしたり、金をひたすら儲けることだと思っていない。

 それに、経営者の思いつきによる独断が、どれほど、部下を苦しめ、また、会社の経営にとって弊害だったかを思い知らされているからである。
 トップの思いつきによる独断は、止める者がいずに、歯止めがきかなくなる。うまくいく時もあるが、大体、仕舞いには事業を土台からつぶしてしまうのがオチである。多くの指導者が陥る穽(おとしあな)である。

 部下の過ちは、トップにある者が許すことはできる。
 しかし、トップを許すことのできる者はいないのである。

 会社経営の目的は、ともに働く人を幸せにし、取引業者にもうけてもらい、また、お客様に喜んでもらうことにある。
会社を大きくしたり、利益を上げるのは、目的ではなくて、手段であり、また、結果である。
その点を間違うと経営は、目的から大きく逸脱してしまうことになる。

 何を為すかが問題なのではなくて、何を望んでいるかである。
 要は、会社を大きくしたり、金儲けをすることではなく、どんな会社にしたいか、どんな仕事をしたいか、どんな国に、どんな社会に、どんな家族にしたいか、どんな生き方をしたいかである。

 仕事をするのは、有名になったり、偉くなったり、出世したりすることが、私にとって目的なのではない。

 どんなに会社が大きくなったとしても、どんなに、利益が上がったとしても、働く者が鬱々として喜ばない様な会社を真に繁栄といえるだろうか。利益のためにと悪事を働いていたら、本末転倒である。

 目的は、何を望むのかにある。
 私が望んでいるのは、志を同じくする者のために、事業を継承することにある。

 自らのために、謀らず。それが私の鉄則である。私欲のために謀れば必ず露呈する。策略とは斯様なものである。
 怖れるべきものがあったとした、自分である。
 自分で自分をいさめるのは難しい。
 況や自分で自分を許すのはなお難しい。
 過ちを犯した時、自分を糾すことも、許すこともできないとしたら、最初から自分のために謀(はかりごと)をしないことである。
 それが私の信条である。
 欲望に弱い者は、禁欲すべし。

 自分にできないのならば、自分に変わって夢を語り、実現する者を求めなければならない。
だから、私は、待っているのである。
 そして、私は、責任をとる。

 次の世代のためを受け入れ、次の世代を認め、道を譲ることがどれほどつらく難しいことか、骨身に凍みているからこそ、私は、自分に続く者を待っているのである。

 皆が何を望んでいるのかを話してくれることを私は待っているのである。

 失敗したことで部下を責めることのないように心がけているのである。
 なぜならば、部下を責めれば、部下は、誰も、望みを語らなくなる。

 いつか、大きな夢を望み、それを自分に託してもらえるような人間になるために、少なくとも、自分にその夢を語ってもらうためには、失敗したからといって人を責める訳にはいかない。そんなことをしたら、誰も自分に夢を語ってくれなくなってしまう。
 それに、失敗は覚悟の上で、受け入れたはずなのだから。

 金が儲からないとか、規模が小さいといったことで思い煩うのは本来の目的を忘れているからである。

 それなら、最初から事業など興さないことである。

 何よりも惚れることである。
 何に惚れるか。

 それは人に惚れるか。
 仕事に惚れるか。
 異性に惚れるかしかない。

 男は女に惚れても、小説にしかならない。
 だから、人に惚れるか、仕事に惚れるかしないと格好がつかない。
 その点女は強い。
 男に惚れても様になるし、子をなせば、このために、全てを投げ出すこともできる。

 母親は強い。男は、命をかけることのできる存在や事業を得なければ、自己実現ができない。
 その点を女は、母になると、無条件で自分の全てを捧げる対象を得ることができる。
 ところが最近、女が欲望や快楽のために母であることを捨てようとしている。
 悲しむべき事である。

 だから、私は、待っているのである。
 惚れる相手を・・・。
 ともに、夢を語り合い、一つの目標に向かって事業を興す者達を・・・・。
 いつか、自分の持てる者全て、財産の全て、自分の命さえも捧げることのできる者に出会えることを夢見て。
 私は、待ち続けているのである。


 なぜ、何のために、誰のために・・・・。
 民主主義というのは、不思議な思想である。
 時として、何のために、誰のためにが不明確になる。
 一人のために、全体を犠牲にしていのか。
 全体のために、一人を犠牲にしていいのか。

 結局、行き着くところは、なぜ、何のために、誰のために生きているのかである。
 それを明らかにするためには、自分がどのような生き方をしたいのかに至るのである。
 なぜならば、人間は、死の前に平等だという前提である。
 死の前に平等だという事は、人は、皆、死ぬという事を暗黙に前提としている事を意味する。
 生とは、死に至る過程に過ぎない。
 ならば、生は、よりよい死を迎えるための準備期間に過ぎないという事である。
 戦争で死んだ人間を不幸と決めつけるのは、生き残った人間の勝手である。
 しかし、大義に殉ずることを生きる目的としている人間にとって生き残ることの方が辛い。
 それは、一人一人がどのような生き方を望んでいるかの問題であり、戦争で死んだ人間を愚かだというのは、生存した人間の言い分であり、戦いで死んでいった者達の言い分ではない。
 そのような言い分は、死んでいた者達を侮辱することにもなる。

 何を自分が望んでいるのか。それが問題なのである。

 根本に個人主義あれば、自己実現が根本的目標である。
 個人の幸せを追求しすぎると利己的になる。
 私利私欲、私事のために、国益を軽んじることになる。
 それは、欲望のために愛を否定することのように・・・。
 人間は、己の欲望や快楽を満たすために生きているのか。
 愛する者のために生きているのか。
 そのことを判然とさせぬままに、生きていくことは、究極的には、自己の全面否定になる。
 後で悔いたところで、過去は取り返せないのである。

 国益は、誰のためなのか。
 国益と私益は対立するのか。
 国のために尽くすことは、自分を犠牲にすることだと言い切れるだろうか。
 このような対立は、国益と私益の根源にある真理によってのみ解決することができるのである。
 だからこそ、国益も私益も超越した存在が必要なのである。
 誰も犠牲になんかなっていない。所詮、最後は、皆、死ぬのである。
 死という現実の前は、人は皆、平等なのである。
 だから、いかに死ぬかの問題であってどのような生き方を望のかの問題なのである。
 だからこそ、国も自分も超越した存在に委ねるしかない。
 さもなければ、国民は、自分を見失い、結局、国家そのものを否定する事になる。
 残されるのは、殺伐とした心象風景でしかない。
 救われたいなら、信じる以外にない。
 信仰こそが個人主義も民主主義も救うのである。



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