2001年1月6日
神について思う
祈りと願い
祈りというのは、先ず、感謝である。次ぎに、許しを乞うこと。そして、最後に願いである。
現代人は、その反対をしている。先ず、お願い事をした上で、許しを乞い、最後に感謝する。だから、お願い事が成就しなければ、許しも感謝もしない。神も仏もないのである。祈りは、個人的なお願いに過ぎないのである。
受験生は、合格祈願し、いろいろな神仏にお願いする。しかし、合格した人の何人がお礼参りをするだろう。逆に、不合格な者は、神仏を恨むのがオチだ。大体、お礼参りという言葉すら、あまり良い意味では使われなくなってしまった。
とにかく、昨今の人間は、神仏に何でもかんでもお願いする。やれ合格祈願だ、いい人が見つかりますように、良い子が授かりますように、家内安全、大願成就、厄よけ、自動車事故に遭わないようにと何でもかんでも神様にお願いする。神様にお願いする癖に、普段は、神様のことなど忘れている。拝みも、祈りもしない。
そして、神社も、お寺も人の弱味につけ込んで神仏を売り込もうとする。それに便乗してテレビ局も霊能者を売り込む。
困ったことや欲しい物があると神様の所に行く癖に、何もないと思い出しもしないのである。
ここで断っておくが、本来、予言者も、占い師も、霊能者も、信仰とは、無縁である。つまりは、神仏とは無縁なのである。予言も、占いも、霊能も、超能力も、能力なのであった神の力ではない。
罰にあたるのをおそれて、神仏に祈っても、罰は当たる。なぜなら、罰に当たるようなことをしているのだから、それを悔い改めることが先決なのである。しかし、最近は、罰に当たることさえ怖れなくなった。
信仰、本来の姿は、感謝である。神に対する感謝である。自分が生きているかと、生かされている事に感謝するのである。それが第一なのである。
信仰の根源は、神への思いである。願いである。願いと言っても、現世利益のお願いではなく。生きる事への願いである。神に対する願いである。信仰への願いである。
そして、次にあるのは、魂の救済。許しである。癒しではない。許しである。許されて、魂が救済されたときに、癒されるのであって、癒しそのものを目的としているわけではない。
現代人は、感謝する心を失った。自分が生かされている事への感謝。今日一日の糧を与えられた事への感謝。人間は、他の生き物の犠牲の上に生かされている。自分を生かすために犠牲となった物への感謝である。
日本人は、お陰様という。それは、常に、人智を超えたところで、得体の知れない何者かの力によって、自分は生かされている。今日、平穏無事に過ごせたのも、その得体の知れない何者か(神様)の、お陰なのだという感謝の気持ちの現れなのである。そして、お互い様と声を掛け合って生きてきたのである。
お陰様、お互い様。
迷惑だなどという必要はない。しかし、お陰様、お互い様と心の中で、常に、感謝する気持ちだけは、持たせなければならない。
現代人は、自分の力だけでこの世に存在しているかの如く錯覚している。だから、神に、人々に、諸々の物に対する感謝する心を失ったのである。好き好んで生まれたわけではないと親に毒づき。欲しい物が手に入らないと天を呪う。何かあると、自分のことは誰も理解してくれないとだだを捏ねる。それで幸せになれる訳がない。
幸せな時は、神を侮り、不幸になると神を呪う。
それで、神の加護だけを望んだところでかなえられるはずがない。
水を飲む時には、水を与えてくれた存在に対して感謝し、食べ物を食べる時は、手を合わせて感謝する。日が昇るのを見ては、感謝し。夕日に祈りを捧げる。それが信仰である。
その感謝の気持ちが、生きる勇気を与え。困難なことに立ち向かっていくための気力の素となる。それが信仰なのである。
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