私は、意志が弱く。一人で信仰を守ることが難しいのです。また、この教えによって私は、救われたのです。私だけでけでなく、多くの人にこの教えを伝え、かつての私のように迷える者を救いたいのです。仲間を集い、お互いに研鑽をし、また、教えを広めてはなりませんか。

同じ志を、持つ者が、集まることは、悪いことではありません。また、お互いが助け合う事も大切なことだと思います。
また、教えを広めることも、悪いことではありません。むしろ、どんどんとやって欲しいことです。

ただ、神の名の下に、金を儲けたり、人を虐げたり、また、人を蔑み、差別してはならないという事を、言いたいのです。
教えを広めようとして、排他的になったり。攻撃的になってはなりません。
この世に、神の名の下の対立があまりにも多すぎる。私は、新たな対立を生む事は、本意ではない。
また、神の名の下に、自分の行為を正当化したり、自分を権威付けする者も多い。神の名の下に人を裁き、罰する者もいる。私は、それを恐れているだけです。

権威は、神にしかありません。
神と人、神と自分とは、常に一対一の関係しかありません。
神と自分との間には、何ものも介してはなりません。

神と自己と間には何者も介在させてはなりません。聖職者も、教会も、教祖も、聖書もいりません。神と自己とは、常に、一対一なのです。神は絶対、普遍なのです。その様な神を代理できるものは存在しません。神に代わる権威は、この世にはありません。
絶対、普遍なる存在と自己が厳しく対峙し、真実の自己を見出すことが第一なのです。
故に、組織は、互助的な組織しか認められません。しかし、信仰を一にして互助に専念するからこそ、その絆は、何よりも強固なものになりうるのです。

神の名の下に、差を付けたり、支配しては、なりません。神の前に人は、平等なのです。

ですから、同じ志を持つ者が集まるといっても、それは、サークルやサロンのようなものにすぎません。この点を、忘れなければ、私は、組織化する事を、神の栄光を、この世に、もたらすためにも勧めます。

組織化されたとしても、その根本は、同じ志を持つ者の互助会的なものでなければなりません。
このような組織は、世俗の法則に従ってもかまいません。むしろ、積極的に効率的な組織を求めるべきです。

組織は、目的にあった組織を作ればいい。同志間で生活を援助しあうならば、保険や互助の組織を作ればいい。お互いが切磋琢磨し、修行をする目的ならば、道場のような組織を作ればいい。信仰を確認し、高めるためならば、サークル的な組織を作ればいい。同じ志をもった者で仕事をしたいならば、民間企業のような組織を。教えを広めたいならば軍隊や宗教団体のような組織をモデルにして作ればいい。教えを実践し、世に尽くしたいならば、ボランティアやNPOのような組織を作ればいい。とにかく、目的にあった効率のよう組織を作ればいいのです。
ただし、このような組織の機構と信仰とは、無縁であることを忘れてはなりません。無縁だからこそ、組織は、ひたすらに、効率性を追求すればいいのです。






私は、同じ志を持つ者、正しいが故に虐げられる者、そういう、人々が集い。唯一の神を中心にして、神の栄光を、この世に、実現するために、助け合い、結束することはすばらしいことだと思います。

ただ、どのような組織、団体も個人の名前を冠してはならない。それは、個人崇拝につながるからです。

正しい行いや教え、この世の諸々の出来事、存在は神に帰すものです。個人に帰すものではありません。神の御前において、全ての人は平等であり、何人も、神と自己との間に介在してはなりません。神と自己との間にはいかなる壁も存在しないのです。神と自己とは、一対一なのです。
だから、いかなる個人崇拝も許されません。

神を信じる者は、一人ではありません。なぜなら、神は、常に、あなたの傍らに居られるからです。そして、同志は、人生の旅の同伴者なのです。伴に、手を携えていこうではありませんか。幸せの為に。神の栄光を目指して。




                         

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