素の自分に向かい合うために瞑想する事は意義深いことである。
自分を見つめ、自分の信じる神と対峙する為に、瞑想せよ。

瞑想というのは、忘我の境地になる事である。
忘我と言うっても自分を忘れることではない。
むしろ純粋の自己の世界に入り込むことである。
自己を周囲の状況、環境に溶け込ませ。
自己の内面と外界を一体として感じる事によって自己というものを直接感じ取ることである。

瞑想とは、純粋なる自己の意識の世界に入り、内観すること、自己の内面を見つめ直す事である。
内観とは、瞑想する事で、自分の現在の精神状態を知ることである。

瞑想には、静的な瞑想と動的な瞑想がある。

静的な瞑想とは、静かな場所で一人になって自分を見つめ直すことである。
座禅が好例である。
動的瞑想とは、踊ったり、運動をすることで忘我の境地になる事である。

瞑想のやり方はいろいろある。
直に床に座って瞑想する。
又は、椅子に座って瞑想する。
横になってもかまわない。
自分が、長時間リラックス、楽にできる姿勢をとることである。

場所も屋外でも屋内でもかまわない。
ただ周囲の視線を気にしなくて良い場所を選ぶ必要がある。

静かで、清浄なる場所で、姿勢を正して瞑想する。
姿勢は、背筋を伸ばして肩の力を抜き。
呼吸を整えて精神の安定を保てるようにする。
だらしない姿勢で長時間すると精神が乱れて悪い妄想に取り憑かれやすい。

目はつぶってもつぶらなくてもいい。

ただ、軽く目をつぶったほうが周囲に気がとられずに済む。
雑念に惑わされないためには軽く目をつぶった方が効果的である。

半眼でもいい。
とにかく、自分の気持ちが楽になるようにする。
そして、心の中を空にして。
無念無想。

ただひたすら無心になれ。
無垢になれ。

ひたすら瞑想をして、素の自分を見つめ直す。

瞑想。

瞑想。

瞑想。

妄想や雑念を捨てられれば、
その時、素の自分が見えてくる。

無理をする事はない。
ただ、リラックスするだけでもいい。
静的瞑想は、心静かに、自分を見つめ直し、自分を取り戻すためにやるのである。

静かに瞑想するだけでなく。
体を動かしたり、声を出すことによって忘我の境地になる事がある。
それが動的瞑想である。

動的瞑想というのは、自己を発散する行為を通じて自分を見つめ直す事である。

音楽に合わせて激しく動き回るのもいい。
素の自分を解放できればいいのである。

自然に体を動かし、声を出す。

踊るのもいい。
絵を描くのもいい。

全力で走るのもいい。
運動をするのもいい。

スポーツも修行の一つである。
仕事も修行の一つである。

日頃の決めごとに囚われずに、自分を解放する。
大声で叫ぶのもいい。
泣きたければ泣けばいい。
笑いたければ笑え。
歌いたければ歌え。
眠りたければ眠れ。

それも又、動的瞑想である。

ただ、極力、薬や酒の力は借りないように。
人事不省になったら瞑想の意味はない。

ストレスの解消は、副次的なことであり、根本は自己を見つめ直し、取り戻すことである。
瞑想とは、逃避的、又は、回避的な行為ではない。

旅も一つの瞑想である。
旅は、自分を取り戻すためにするので、今の自分から逃げ出すために旅するわけではない。
瞑想は、自分を見つめ直し、自分を取り戻すために行うのである。






             

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