2001年1月6日
神について
神と文明
三人の男が立ち上がり、その方を指さしながら、あざけり笑った。そして、そのうちの一人が、このように言った。
神など、私は、恐れはしない。私は、万能な科学者だ。私には、不可能と言う事はない。神の力に頼る必要があるだろうか。そのうちに私は、命だって作り出してみせる。何が創造主だ。それを言うなら、私こそ創造主だ。
それに対し、その方は、言われた。
いかに科学文明が進歩しようと、神の力と法を越えることはできない。
人の作り出すものは、全て、神の力を借りて作り出されるものだ。科学万能の世といえど、創造主たる神の、定められた法則に従っているに過ぎない。
信仰なき文明は、凶器だ。包丁にせよ、自動車にせよ、自制心が、あってこそ役に立つ。同じ技術でも使い方を誤れば、殺戮の道具となる。文明の利器は、理性がなければ、化け物に変じる。
自然の法則を解き明かし、高度な技術を開発すればするほど、むしろ、人間は、強い自制心を求められる。神を怖れぬ者は、結局、自分の生み出した文明によって、滅ぼされるであろう。なぜなら、原子力の例を引くまでもなく、高度な技術によってもたらされたものは、それが及ぼす影響も計り知れない。それを制御するには、高度な操縦技術と強い精神力を求められる。そして、極度の緊張に耐え、冷静さを保つためには、信仰心が必要なのである。
文明によっても自らの死は乗り越えられない。死を前にして、神をも恐れぬ者は、自らを律することができなくなるであろう。死は、神が、人に与えたもうた宿命だ。人に与えられた宿命は、死だけではない。哀惜離別。宿命を前に人間の理性などもろいものだ。信仰心のみが、死の恐怖を克服させ、人間に理性をもたらす事ができるのだ。
自然の法則は、神の摂理である。自然の法則を、解き明かせば、解き明かすほど、神に対する人間の責任は増していくのである。解き明かされた法則を人類にとって、本当に役立てられるか、否かは、人間の問題である。そして、それは、人類の存在の本質に関わる問題なのである。
だからこそ、科学文明が発達すればするほど、人は、神を必要とするのです。
海を汚すのは、誰でしょう。それは、人間です。だいたい、海が、汚れていると感じるのは、人間です。人間にとって汚く、臭く感じるから、海は汚れているというのです。しかし、それは、人間の勝手です。
自然を、保護するのでは、ありません。自然に、保護されているのは、人間です。人間を自然が保護できなくなって困るのは、人間です。自然ではありません。自然を必要としているのは人間なのです。
初老の紳士然とした男が、物静かに語りかけた。
私は、全知全能の医者だ。私に治せぬ病はない。神など怖れる必要があるだろうか。だいたい、神だ、祈祷だ、祈りだと世迷い言を言って、我々の忠告を、聞かない患者が増えて困る。神など、我々にとって迷惑千万なものに過ぎない。神は、誰も救ってはくれないのだ。実際の病を治しているのは、私たちなのだから。
その紳士の方をゆっくりと見ると、その方は次のように答えられた。
何が解決したというのでしょう。何も、問題は解決してはいないではないですか。
いかに医学が進歩しようと、苦しみの根源にある生病老死が克服されたわけではない。むしろ、医学が進歩し、世の中が発達すればするほど、その逃れられぬ苦しみの本質は、より鮮やかなものになる。
生命の神秘に、触れれば、触れるほど、神の偉大さは、明らかになる。我々は、生かされているのだ。
誕生の喜び。病の苦しみ。老いの哀しみ。死への怖れ。医学は、人の宿命の前にいかに無力か。体の病は、治せても、心の傷は癒せない。
人の一生を支配しているのは、病だけではない。
そして、本当の病は、傲慢という病だ。神を恐れず、人の命をもてあそぶ、傲慢という病だ。
生病老死という人間の宿命から、誰一人逃れられないならば、神に祈り、心の平安を得ることなしに、人は、救われることはない。信仰こそが、何よりも換えがたい薬なのである。
迷信は、神の問題ではない。迷信を生み出すのは、迷いや恐れだ。迷いや恐れをなくし、真実に目覚めさせるのが信仰である。ゆえに、正しい信仰のみが、人を迷信から救うことができるのである。
恰幅の良い、見るからに精力的な男が、その方をにらみながら、吼えるように話しかけた。
私は、全能の支配者だ。この世に私に手に入らぬものはない。なぜ、神に祈らねばならないのか。一体、神は、俺に何をしてくれたというのだ。俺は、欲しい者は、自分の腕ずくで取る。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。神に頼る者は、臆病者の弱虫だ。神など、迷信に過ぎない。
と傲慢に言い放った。
その方は、微笑みながら、諭すように、こう申されました。
この世にある全てのものは、限りあるものです。この世の出来事は、夢、幻のようなものです。肉体も、やがては、衰え、老いさらばえていく。あなたが、今、手に入れたと思っているものは、かりそめなものです。あなたが得たと思う物は、全て、神からの借り物に過ぎません。いつかは、神のもとに返さなければなりません。人は、死に際し、なに一つ、持っていくことは、許されません。自分の肉体すら、この世に残していかなければならないのです。それ故に、多くを得た者は、多くのものを失う事になるのです。多くのものを所有していると思えば、つぎには、失うことを怖れ、おののくようになる。結局、絶えず、人に奪われ、失うことに、怯えて生きていかなければならない。そして、そこに諍いや争い、憎しみの種がまかれていく。
ただでさえ、何かを所有したいという欲は、果てしない。限りある者が、限りない欲に、捕らわれれば、無限の苦しみの淵に陥ってしまう。その上、得たものを失うことを怖れだしたら、きりがなくなる。それは、自分から地獄へ堕ちていくようなものです。
神に全てを委ね。日々、生きていくのに、必要な糧を得られた時、ひたすら神に感謝をしていればこそ、なにものも怖れることはないのです。なぜならば、所詮、帰するところ、この世の全てのものは、神のものなのですから。
神など怖くはない。だいたい、神は、俺たちを、四六時中、見張っているわけではあるまい。一人一人のやったことなど一々記憶しているはずがない。神を誤魔化すことなど簡単さ。
じっと声のした方を見つめながら、その方は、こう答えられた。
他人は、ごまかせても、自分の目や心はごまかせません。あなたの目の中に神の眼があり、あなたの心の中に神の心が宿っているのです。
あなたを裁くのは、あなたの心に宿る神なのです。
人生の究極の目的は、自己実現による自己の救済です。そのためには、自己の律法を厳しく守らなければならないのです。また、自己の信念、内なる神に忠実でなければならない。
つまり、自己の正義に忠実であろうとする精神が忠義であり。それは、内なる神への忠義になるのです。また、自己の信念に正直であろうという姿勢が忠誠心であり。内なる神への忠誠心なのです。
自己に忠実であろうとすれば、自己が愛する者に対する忠義へ、忠誠心へと姿を変える。それが神の愛です。そして、それが行き着いた先に信仰があるのです。だからこそ、その愛は、普遍的絶対的な愛となるのです。
神の本質は愛です。
愛は、自己の内にあって絶対、普遍なものです。
しかし、愛は、移ろいやすく、儚いものにみえる。
それは、なぜか。
愛は、自己を通してこの世に顕れるからです。この世に顕れる時、愛は、対象と方向を持つ。それを第三者が見た時、相対的なものにみえるのです。
また、自己は、今しか存在しない。
だから、時間の経過の中で愛は、移ろいやすいものに見えるのです。
しかし、愛の実相は、絶対、普遍なもの、すなわち、神のものなのです。
故に、自己実現による自己の救済は、愛によって成就する。その愛は、自己への愛、愛する者への愛、神への愛、すなわち、普遍的愛、献身的な愛によって成就するのです。
神を欺くことは、自分の人生を欺く事です。それは、自分の愛する者に背を向け、神の愛をも拒絶することです。神を欺き、神の愛を拒絶する者をどうして神は、救うことができるでしょうか。それは、神が汝を拒んだのではなく、汝が、神を拒んだからである。
最後に人は、神の前に一人で額ずかなければならない。そして、そこで面前に見るのは、あなたの神である。そこに見るのは、あなた自身の姿だ。
恐れるべきは、あなたの良心です。あなたの人としての心です。それは、何人もごまかしたり、欺いたりはできない。
最後には、あなたが、あなた自身を裁くことになるのです。
このホームページはリンク・フリーです
Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano